【コラム・相澤冬樹】7月30日に始まった「土浦キララまつり」は8月7日まで続く。新型コロナウイルス「第7波」の急速拡大と歩調を合わせるようなタイミングとなってしまったが、何とかやり切れてしまいそうな雲行きである。

3年ぶりの本格開催。人出があっても、なくても、告知を担った媒体としては結果が気になるイベントで、2度目の週末となった6日、土浦の「まちなか」を訪ねてみた。暑さが幾分やわらいだこともあって、会場周辺には「密」にはならない程度の人出が繰り出していた。若者や家族連れが目立ち、途中出会った商工会議所の顔見知りは「パレードがないのは寂しいけれど、賑わいが少しは戻った感じでうれしい」と上気した表情で語った。

キララまつりは従来、土浦駅前通りを歩行者天国にして、市内の各種団体が隊列を組んで練り歩く七夕踊りパレードがメーンイベントだったが、今季は新型コロナ感染対策から実施を見送った。代わって亀城モールからモール505にかけ、飲食や雑貨などの露店ブースが立ち並ぶマルシェスタイルが集客の核となった。

失われた名前を探す

告知の段階では、この会場の説明に頭を悩ませた。亀城モールというのは、桜橋交差点の中央2丁目側から土浦駅方向に向かい、川口1丁目でモール505に接する、メーンストリート沿いの遊歩道。普段は小公園と歩道の組み合わさったオープンな空間になっている。土浦市の事業で、21年度に整備が完了したが、中央2丁目側がキララまつりで使われるのは今回が初めてだ。

古い土浦市民には「旧祇園町」という方が、川口側の街区との接続を含め説明がしやすいのだが、1974年に行われた住居表示で祇園町の名はとうになくなっている。

中央1、2丁目をまたぐ桜橋交差点は昔、橋がかかっていた名残りで、亀城(土浦城址)から川口川が流れ出し、霞ケ浦水運と結んだ河岸(かし)になっていた。この川を、暗きょにして上に2階建てのマーケットが作られ、祇園町が出来たというのは、さらに戦前に遡る昔話である。

そういえば、踊りパレードが行われていた際には、その会場名は「目抜き通り」になっていた。かつて告知記事を書いた時、シャッター通りには似合わないから「駅前通り」と表記させてくれと頼んだことがある。

当時の商工会議所関係者は「なあに、今どきの人は目抜き通りの意味はご存じないでしょう」と平然と言ったものだ。確かに「生き馬の目を抜く」という語源も、その意味するところも現代では通じにくいとは言える。

さらに今回のマルシェを主催した「本町通り商店会」はかつて、「本町銀座通り」といっていた。本町も1974年の住居表示で中央2丁目に組み入れられたが、商工会議所近くの道路上を横断していた「本町銀座通り」のアーチはしばらく残ったはずだった。地元の顔見知りに聞いてみたが、「さあ、銀座の看板を下ろしたのはいつだったか」。遠い記憶になっていた。

まちなかの「楽しい!」を探す夏ーと銘打った今回のキララまつり。熱気と密に満ちた往時の七夕まつりの残像をたどりながら、ひとり忘れられた通り名を探す、夏のお出かけとなった。(ブロガー)