【ノベル・伊東葎花】
タクシーの運転手をしていると「幽霊を見たことがありますか」などと訊かれることがある。答えは「ノー」だ。私には、霊感というものが全くない。
だから、客待ちの合間に誰かが怪談話を始めても、その輪に入ることはない。
「子どもの霊が出るらしい」
背中越しに聞こえてきた。またかと思いながら缶コーヒーを飲み干した。
夜、坂の手前で子どもが手をあげていて、うっかり乗せたら大変なことになるらしい。
修学旅行の怪談話みたいなひそひそ声で、内容はよくわからなかった。
「おお怖い。深夜に子どもは乗せるな、ということだな」
誰かが身震いしながらそう言って、怪談話はお開きになった。
下り電車が到着して、それぞれのタクシーがロータリーに向かう。
さあ、仕事だ。怪談話を気にする暇などない。
その夜、客を降ろして帰る途中、ライトが人影をとらえた。
ガードレールの切れ目で、手をあげている子どもがいた。
時刻は11時を少し回ったころだ。
てっきり親がいっしょだと思って車を止めた。
ドアを開けると、子どもはひとりで乗ってきた。
「さくら坂霊園までお願いします」
子どもが言った。霊園? この深夜に?
こんな時間に子どもがひとり。どう考えてもおかしい。
そこが、昼間の話に出てきた坂の手前だと気付いたときには遅かった。
昼間の話に出てきた子どもの幽霊だろうか。ちゃんと話を聞けばよかった。
「深夜に子どもは乗せるな」という言葉だけが、耳の奥で渦を巻いた。
しかしもう乗せてしまったものは仕方がない。私は車を発進させた。
後部座席は静まり返っている。バックミラーには何も映らない。
怖くて振り返ることは出来ない。
考えるな。前だけを見て運転しろ。
自分に言い聞かせて、ハンドルを握った。
初めて幽霊を乗せた、それだけのことだ。
霊園に着くと、きっと子どもは消えている。
そして後部座席が濡れている。そんなベタな話、今や誰も怖がらない。
大丈夫。怖くない。怖くない。
対向車もない寂しい林道を走り抜け、車は霊園に着いた。
クーラーがあるのに汗だくだ。車を止めて、恐る恐る振り向いた。
子どもはいた。つぶらな瞳で私をじっと見ている。
「いくらですか?」
はっきりした声だ。なんだ、普通の人間の子どもじゃないか。
何を怖がっていたんだ。
そうだ。この先に住宅が数軒ある。きっとそこの子どもだ。
塾か習い事で遅くなって、タクシーで帰るように親に言われたのだ。
バックミラーに映らなかったのだって、この子が小さいからだ。
まったく何を怖がっていたんだろう。
霊感がない私に、幽霊が見えるはずがないだろう。
ほっと肩を下ろしてにこやかに答えた。
「970円です」
子どもは、誰もいない助手席に向かって話しかけた。
「970円だって。お母さん」
(作家)