【コラム・山口京子】父が現在の介護施設に入所して、ちょうど1年が経過。先月、ケアマネジャーさんから連絡がありました。父が軽い肺炎で、医師から酸素導入の処方があったという報告でした。継続的ではなく、肺の機能が回復すれば外せるとのこと。

しばらくして、また施設から電話がありました。父が酸素導入の管を嫌がって外し、大声で怒り出して困っているというのです。認知の低下があるのかもしれません。家族としては、本人が嫌がるなら外してくださいと、施設担当者と医師に伝えました。

家にいるときから、本人は「こんなに長生きしたんだから、早くお迎えがくればいい」と言っていました。介護が必要になってから5年目、今年89歳になります。自分のことが自分でできない不甲斐(ふがい)なさを持て余しているようです。冗談なのか本気なのか。本当にそう思っているのかもしれません。

施設の父とは、ガラス越しに対面はできますが、踏み込んだ会話は難しくなっています。入所するに当たって、いくつもの書面を作成しました。終末期医療については、痛みは取ってほしいが、延命治療は不要であると意思表示しました。

「とうちゃんは、死にたいとばかり言ってるよ」

でも実際の場面で、具体的な判断が求められる際の難しさに、戸惑っています。呼吸ができないで苦しいと感じたとき、酸素導入を望むのか、やっぱり嫌がるのか。これから父の体はどんなふうに変化していくのか。意識がなくなった後、医師の処方と家族の思いはどう折り合うのか。

「とうちゃんは、死にたいとばかり言ってるよ」と、母が言います。父が入っている施設にデイサービスで通っている母の話です。母はもう覚悟をしているのかもしれません。

「自分の方が早く逝くこともありえるのだから、そのときはよろしく頼む」とも言われています。「こんなに長生きするとは思わなかった」が口癖の母です。両親が結婚してから67年。だんだんと一つの家族の終わりが近づいているのかもしれません。

何かを成すには時間がいるということは事実でしょう。でも、人生は時間の長さではないかもしれません。でも、そう思えるのに随分時間がかかってしまいましたいつだって、「今」においてしか、生きることはできないのだもの。人は記憶や意識という機能を持つ、やっかいな生きものなのでしょうか。優れた生きものなのでしょうか。

今年もまた、ジャガイモの種を植え付けました。庭にはフクジュソウが咲いています。(消費生活アドバイザー)