【コラム・川端舞】「もし自分の障害を、両手の麻痺(まひ)、両足の麻痺、言語障害に分けられて、この中の1つだけ神様が治してくれるなら、絶対、言語障害を選ぼう」。中学から大学にかけて、コミュニケーションの壁にぶつかるたびに私はそう思っていた。

足の麻痺はバリアフリーの場所で車いすに乗れば何の問題もなくなるし、手で文字が書けなくても、パソコンを使えば、人より時間はかかるけど文章を書くことができる。でも、言語障害はどんなに事前に伝えたいことを文章にしても、その場で思いついたことをすぐに周囲に伝えられない。

「言語障害さえなければ、もっとたくさんの人と関わることができるのに」と、大学のころまでずっと自分の言語障害を憎んでいた。

しかし大人になり、介助者と外出するようになると、自分の言ったことが相手に伝わらなくても、そばにいる介助者に通訳してもらえるため、事前に伝えたいことを書いていかなくても、気軽に外出先で話せるようになった。

当たり前だが、文字で伝えるより、声で伝えた方が早く伝わるし、そのとき思ったことを臨機応変に伝えられる。何より直接相手と話した方が、コミュニケーションは楽しい。

言語障害だからこそ伝えられること

あれほど嫌だった言語障害を愛(いと)おしく思う瞬間が最近出てきた。様々な場所で私の経験を聞きたいと、講演を依頼されることが増え、「できるだけ介助者が原稿を代読するのではなく、ご自分で話したものを介助者が通訳する形でお願いできないか」と言われることもある。

介助者が代読するより、私が直接話した方が伝わることがあるそうだ。言語障害があっても、どうすれば思いを効果的に伝えられるか、無意識に考える癖が幼いころから付いているからなのかもしれない。言語障害がある私だからこそ、聞き手に訴えかけられるものがあるのなら、私にとって言語障害は武器にもなり、幼いころからともに葛藤しながら歩んできた相棒のようなものなのかもしれない。

子どものころの私は、「言語障害のある人はできるだけ話さない方がいい」と思い込み、言語障害を憎むまでになってしまった。今、堂々と話す私の姿を見て、「言語障害があっても、通訳など周囲の協力があれば、話せるんだ」と、言語障害のある子どもやその周囲にいる人が思ってくれれば、これほどうれしいことはない。

もちろん、障害者によって心地よいコミュニケーション方法は違うが、「本人が自分の声で話したいと思うなら、堂々と話していい」と伝え続けられる人間でいたい。それこそ言語障害とともに生きてきた私だからこそできることだと思う。(障害当事者)