【コラム・高橋恵一】瓢箪(ひょうたん)は、自分でも妙な形をしていると思うし、粋な変人に気に入られたりして高値のひさごになったりもするが、つるにぶら下がっているときは、呑気(のんき)に見えるのだろうか。しかし呑気な姿から見える世の中は、呑気では済まない光景が多すぎる。

私の心に長く重く引っかかっている「事件」がある。中学校の体育館で丸めて立てられていたマットの中で逆さになって死亡していた中学生の事件である。いじめの末の悲惨な事件で、7人の同級生が犯人とされたが、7人の中学生は自供を覆し、7人の少年の親や弁護士、地域の応援する大人まで登場し、少年法の審判や民事訴訟の判決まで右往左往し、一応、裁判の結果は出たが、7人の元少年の謝罪の言葉はなく、被害者の家族の方が肩身の狭い生活を強いられている事件であったと認識している。

いじめの行き過ぎが中学生の命を奪ったのだが、警察の自供に頼った捜査や、証拠の不十分さなどが指摘され、加害者少年の人権保護なども話題になり、一方では、被害者家族に対するよそ者扱いが、地域の多くの「大人」まで、犯人の少年たちの味方になり、推理小説やえん罪事件の様相まで示してきたのだった。

しかし、被害者少年が7人の同級生によって死なされたのは明らかであり、被害者とその家族がさらに苦しむような事態は理不尽としか言いようがない。7人の少年の親や事実をねじ曲げた大人たちは、事件のあとの7人の人生にどう責任を取るのだろう。

親は子供を守ったつもりだろう。周りの大人は、自分をどう納得させたのだろうか。有罪かどうか、事件をどう繕ったとしても、7人の少年は、自分自身がどう関わったのかは判っており、周囲の人々も真実を知っていて「うそ」もばれており、そのような状況の中の自分をどう納得させて生きるのだろう。7人の元少年は、自分の妻や子、職場や地域で「うその真実」を主張し続けなければならないのだ。一生付いてくる罪であり、中学生の7人に一生その重荷を背負わせた親や弁護士、周囲の大人の罪は余りにも大きいのではないか。

この頃は、事件や事故で真実を認めないことが多くなった気がする。加害者あるいは責任者の人権を最大限尊重するとしても、その否定が被害者やその家族の心をさらに傷つけることも認識するべきだろう。

関連するが、国の指導者が、歴史の真実をねじ曲げ、日中戦争や南京事件、慰安婦問題などで、「侵略とは決めつけられない」「犠牲者数が曖昧」「強制性はなかったのではないか」などと言ってはばからないことにも、同様の懸念を持たざるを得ない。「気持ち」のない反省や、金を払ったから済んだという心の貧しい態度は、被害者への謝罪にならないだけでなく、当時の関係者の免罪符にもならないし、我が国を貧相に見せるだけではないのか。

瓢箪の思いは、マット事件にせよ、歴史認識のねじ曲げにせよ、それが多くの人の心に重い影を残すだろうし、もし、ストレスで瓢箪に見えない傷ができると、酒が漏れて高い値段の「ひさご」にならないだろうと心配が尽きないのだ。(元オークラフロンティアホテルつくば社長)