【コラム・浅井和幸】人間の脳には臨界期というものがあるようです。「人間の能力には」と言ってもよいかもしれません。ネットで「脳の臨界期」を検索すると興味深い論文などがみられるので、ぜひ調べてみてください。面白いですよ。ま、ひねくれ者の皆さんは、プラスして「批判」の検索も楽しいです。

平たく言うと、〇〇歳までに習得しないと完全に習得できない能力というものがあり、その〇〇歳というのが臨界期というわけです。あらゆる音が絶対的なド、レ、ミ…に聞こえる絶対音感、語学の発音、バランス感覚などなどがあるようです。この理論を重んじると、早期に教育しなければ立派な大人になれない、といった教育論につながりやすいですね。

商売というものは、そこをうまくついて広告するものですね。「資格をとろう」なんて、気を付けてくださいね。

全てを否定するつもりはありませんが、私が否定的な文章を書いている理由の一つは、それが個人個人に合った教育からかけ離れてしまう危険性です。例えば、「ハイハイ歩き」よりも「つたい歩き」の方が人間として価値が高いと言って、「ハイハイ歩き」をさせないと、これで習得する大切な能力が得られない可能性があります。

成長には個人差があるのに、〇〇カ月で「つたい歩き」を習得しないと、まるで子育て失格だと自分を責めてしまう親御さんもいますね。

立派な勉強は実を結んだ?

もう一つは、そんなに完璧な能力を身に着けることが、多様性のある人生においてどこまで必要性かという疑問です。絶対音感はないけれど、素晴らしいミュージシャンは星の数ほどいます。幼児教育で英語を習わなかった英語教師や、海外で英語を使って活躍する研究者は、当たり前にいます。

運動能力にしても、日常生活やある親御さんが目指す子供の成長した生活の中で必要な運動能力は、世界有数の高い能力が必要でしょうか。そこまでの能力は必要ないことの方が多いですよね。

例えば、50歳で100メートル走や垂直飛びの成績がよいのは、元運動選手でしょうか、それ以外でしょうかと質問されたら、今、その運動を続けている人だというのが事実でしょう。ましてや、けがや病気のない健康の状態は、元スポーツ選手である方がけがで引退して、後遺症が残ってないでしょうか。

英語を話せないのは、テストや文法理論偏重の教育のせいだ、もっと早く素晴らしい教育を受け続けられれば、きっと英会話ができる人間が増える―。否定はしませんが、私だったら、英語を話せたらより立派な仕事ができるとか、素敵な女性とつき合えるという実例を感じられた方が、英会話を頑張っちゃうかもしれませんね。立派な数学や化学の勉強は、実を結びましたか?(精神保健福祉士)