【コラム・奥井登美子】石岡市の「ふるさと歴史館」でボランティアをしている斎藤護さんに誘われて、「村田宗右衛門の本棚」という企画展を見に行った。3代目の村田宗右衛門の次男の村田英次郎が、結婚し、我が家に婿に来て、姓と名までが変えられて奥井有一郎。私の亭主の父親である。

舅(しゅうと)は何かことがあると、石岡が恋しくて、私は父のお供でよく石岡に行かされた。石岡市街に入る前、必ず山王川の畔で停車して風景を鑑賞する。ここから見る筑波山は先端が鋭角で、その日の気候で色が様々に違って見える。不可思議で見事な山の眺めだ。

「ここから見た筑波山の形は、よそでは見られない形と色だよ。いいだろう」

そのころの石岡の町には古い構えの商店がまだたくさん残っていて、歩いても楽しかった。無責任な私の観察であるが、まるでそのまま歌舞伎役者になれるような、面長の村田家独特の顔の系譜もある。我が家では次兄の奥井勝二が、若い時は村田流の顔であった。娘の不二子がそれを引き継いでいる。

宗右衛門は石岡の渋沢栄一

千葉県野田のキッコーマンの社長の茂木家にもよく行かされた。舅の仲良しの従妹(いとこ)が2人、村田家から茂木家に嫁いでいて、格式のある立派な家だった。特に畳敷きのトイレがすごい。十二単衣みたいな和服の服装で入っても、排泄してその後トイレの中で着替えもできるという広い個室。私は最初、見ただけでびっくりして、緊張し、オシッコが出なくなってしまった。

佐原にも行かされた。舅の母親のおとくさんの実家が佐原市の伊能忠敬家の隣家の箕輪商店だった。お嫁にくる時は船で来たそうだ。村田家のルーツは近江商人で、近江屋宗右衛門といっていた。酒と醤油の製造を手掛け、莫大な財を築いて、明治の初めころは家に蔵が何棟もあったという。

企画展の一番目立つ所に、村田家の醸造品の宣伝用の看板が置いてあった。英字と日本字の混ざった今風の看板で、江戸時代の発想から考えると飛びぬけて現代的である。徳川から明治へ、日本中が大革命で、渋沢栄一流の日本の文化の枠を乗り越えた商人が台頭した時代だったのだろう。村田宗右衛門は、石岡の渋沢栄一だったのだ。(随筆家、薬剤師)