【コラム・川端舞】子どものころ、自分が普通学校に通い続けるためには、常に良い成績をとり、教員のご機嫌をとる必要があると思っていた。そんなことをしなくても、自分にも普通学校に通う権利がもともとあるとは考えもしなかった。

日本の学校教育では、「人権」と「思いやり」「やさしさ」は同じものとして教えられることが多い。私の小学校時代も、毎年12月の人権週間では「友だちにやさしくしよう」のようなスローガンが掲げられていた。もちろん人間にとって「思いやり」「やさしさ」が大切なのは言うまでもない。

しかし、例えば「障害者にやさしくする」と言った場合、「やさしくしよう」と決めるのは障害者の周りにいる人である。周りの人の気持ち次第で、「昨日は時間に余裕があってやさしくできたけど、今日は忙しいから難しい」と言ってしまうこともできる。

障害児が普通学校に通うのは権利

障害のない子どもは、原則、少なくとも中学校までは家の近くの学校に行ける。少子化による学校の統廃合はあるが、子どもの数が多いという理由で、特定の子どもを他の学校に転校させることはせず、教員や教室の数を調整するだろう。それは学校側が「やさしい」からではなく、子どもには、家の近くの学校に通う権利があるからだ。

しかし、障害児の場合、支援の手が足りないなどの理由で、家の近くの普通学校ではなく、市町村に数ヵ所しかない特別支援学校に通うことを簡単に提案されてしまう。障害児が普通学校に通うのは、障害のない子どもと同等の権利のはずなのに、「障害があるけど、普通学校に通わせてあげる」という「やさしさ」にされてしまい、学校側に「やさしくする」余裕がなければ、当然のように特別支援学校への転校を提案されてしまう。

障害のない子どもが当たり前に通う普通学校に、障害児も当たり前に通えるのが権利であり、周囲の気持ち次第で変わってしまう「やさしさ」に左右されるべきではない。障害がある子とない子がそれぞれ必要なサポートを受けながら、同じ教室で学べる環境が前提にあって、初めて「やさしくする・される」「やさしくしない・されない」という経験がお互いにできるのだろう。

人間関係を学ぶ上では、時に友達とけんかし、「やさしくされない」経験も必要だが、障害児は友達にやさしくしてもらわないと学校に通えない環境にいる場合、友達と本気でけんかする経験もできなくなる。(つくば自立生活センターほにゃらメンバー)