【コラム・奧井登美子】犬のミミちゃんの自然死を体験して(5月8日掲載)、私たち夫婦も「どうしたら人間らしく死ねるか」という大問題に突き当たってしまった。

「僕も、寿命がきたら、無理に生かさないでくれよ。自分の部屋で、自然に死んで行きたい。家で、安らかに死んだミミちゃんがうらやましいよ」

「松尾芭蕉の奥の細道は、彼なりの理想の自然死を求めて出発したという説があるけれど、江戸時代ならともかく、今の医療の中で、家で死ぬ自由があるのかないのかわからない」

「入院したら、いろいろな管につながれて管だらけ、犬の鎖と同じだ」

「ミミちゃんも、鎖を外して開放してあげたとき、とてもうれしそうだった」

高齢者に課せられた難しい課題

今、コロナの流行中で、クラスターをふせぐために家族が病院に面会に行っても、直接会わせてもらえないことが多い。臨終という、家族にとっても、本人にとっても、人生で一番大事な最後の時が、なくなってしまっている。

知り合いで、「絶対死なないぞ」と言っていたご主人が、救急車で入院し、がんで亡くなってしまった。最愛の人が骨になって帰ってきたあと、奥さんは、臨終に立ち会えなかった寂しさとむなしさでノイローゼみたいになってしまった。

パルスオキシメーターという医療器機がある。指を入れるだけで血液中の酸素が計測できる。私たち世代の人にとっては夢のようなものだ。うちの薬局へ、これを買いに来た人は「医療用の、高価で、いい機械が欲しい」と言う。

コロナ対策として使ったあと、この機械で自分の寿命のあるなしを想定して、善後策を考えるのに使うのだと言う。すごい人だ。

どうしたら人間らしく、その人らしい個性を維持しながら、平和に、あまり人に迷惑をかけないで死ぬことができるか。私たち高齢者に課せられた難しい課題である。(随筆家、薬剤師)