【コラム・川端舞】「頑張る」という言葉が好きではない。幼い頃から周囲に「頑張り屋さんだね」と言われるたびに、「自分は頑張らないと見捨てられるのだ」と無意識に思ってしまい、苦しかった。

もちろん、自分がやりたいことのために頑張ることは否定しない。それで夢をかなえることができたら素敵なことだ。しかし、私が純粋に自分の好きなことのために努力し始めたのは大学に入学してからだ。

「自分は障害があるから、勉強は誰よりもできないと、見捨てられる」。少なくとも中学時代までは、何も疑うことなく、本気でそう思っていた。だから頑張った。でも、どんなにいい点数を取っても、「これでまだ学校に通える」と一瞬安心できるだけで、また次のテストのために頑張ることしか頭になかった。自信が付いたり、自分をほめてあげることはできなかった。

どんなにいい点数を取っても、自分の障害はなくならないのだから、当然だ。当時の私は、自分の障害を学力で補おうとしたが、そもそも障害は勉強や個人の努力で補うものではない。校舎をバリアフリーにしたり、できない部分は周りが手伝ったりすることで解決できるものだ。環境を変えることで解決するべき問題を、私の努力だけに押し付ける言葉として「頑張り屋さん」が使われた。

もちろん、当時、そのような意図を持って、この言葉を私に投げかけた人は少なかっただろうが、幼かった私は「頑張り屋さん」という言葉にプレッシャーを感じてしまったのだろう。今でも「頑張る」という言葉にアレルギーがあるようだ。

休み方がわからない

中学時代、他の生徒と同じ量の課題を無理に終わらせて、体調を崩したことがあった。大人になっても、自分の体力を考えずに仕事に集中し、後日、反動で寝込むことも時々ある。

疲れたら、適度に休めばいい。頭ではわかっていながら、気づくと休まずに、限界までやってしまう。昔から、休み方や気分転換の方法が分からない。

障害があると、他の人と同じことをやろうとしても、何倍も時間がかかってしまうことが多い。バカ真面目な私は、時間をかけてでも完璧にやろうとしてしまいがちだが、それでは当然体調を崩す。自分の障害を努力で補うのではなく、周囲からサポートを受け、上手に休む方法を子どもの頃から身に付けたかったと、大人になって思う。(つくば自立生活センターほにゃらメンバー)