【コラム・奥井登美子】私は土浦市立真鍋小学校の学校薬剤師を何年か勤めた。この学校には、校庭のまん真ん中に、昔寺子屋だったときの名残の桜の古木がある。入学式の日は、6年生が新入1年生をおんぶして満開の桜を一周する。

初めてこの光景をみたとき、私はどういうわけか、涙があふれて、あふれて、止まらなくなってしまった。私にとって小学6年生は生涯で一番忘れられない年なのである。

昭和19年の夏休み、私たち小学生は空襲時に備えて、3年生から6年生まで東京から強制疎開しなければならないことになった。縁故のある人は縁故疎開。ない人は学校ごとの学童集団疎開。成績順にクラス分けしていたので、1番組の男の子は3中(今の両国高校)、女の子は7女(今の小松川高校)を目指していた。

仲良しだったクラスメートとバラバラに別れてしまう。そのとき、皆で「3月12日の都立の受験日には帰ってくる」堅い約束をしてしまった。

父も母も京橋生まれで、田舎に親戚のない私と3年生の妹は、集団疎開を選ぶしかなかった。上野駅に送りに来た父は「困ったことがあったら、すぐ連絡してください。迎えに行くから」と言ってくれた。

山形から長野へ再疎開

今考えると、いきなり26万人もの児童が地方に分散するのである。住む所、食べ物など、学校を用意する地方の人たちもさぞかし大変だったに違いない。

山形県湯の浜温泉の旅館に宿泊することになった私たち。はじめは、3食、何とかありつけたが、1か月くらいして食事の量が極端に少なくなり、お腹が空いて我慢ができない。子供なりに、お手玉の中に入っている小豆を取り出して食べたりした。

父に手紙を出して迎えに来てもらい、私たち家族は何とか無事に長野県へ再疎開することができた。

友達との約束の日、私は猛反対されて上京できなかった。約束を守って受験のために帰った友達は、否応なく3月10日の東京大空襲に巻き込まれてしまった。私たちが受験する予定だった東京下町のエリアで、30万人もの人が亡くなったという。(随筆家、薬剤師)