【コラム・田口哲郎】

前略

『新約聖書』にマグダラのマリアという女性がたびたび出てきます。マリアというとイエスの母マリアを思い浮かべます。マグダラのマリアは聖母とは別人で、イエスに付き従った女性グループのひとりだったと言われます。ダン・ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』(2003年)などでイエスの妻だったという説も言われますが、詳細は分からない人です。

ですから、マグダラのマリアが聖書に出てくる罪深い女、つまり娼婦と同一視されたり、最後の晩餐でイエスに香油を注いだ娼婦だとされたり、確証はないままに、いつの間にか罪深い女に措定されてしまいました。キリスト教の長い歴史の中で、聖母マリアは純潔の象徴として、マグダラのマリアは罪の象徴として意図的に意味づけられたのではないかというのが現在の定説です。

しかし驚くことに、貶(おとし)められたマグダラのマリアはカトリックでは聖人になっています。罪深いながら回心してイエス・キリストを信じたからです。復活したイエスが最初に現れたのはマグダラのマリアだったとされています。

このマリアが最も感動的に描写されるのは「ルカによる福音書」7・36〜50です。マリアは晩餐の席にいたイエスの髪に香油を塗り、彼の足を自らの髪を涙で濡らして拭きます。イエスはマリアの帰依に「あなたの罪は赦(ゆる)されている」と言います。人間は誰しも罪の意識を負っています。悪事を積極的に行わなくても、いつの間にか犯した罪に苛まれることもある。太宰治の「生まれて、すみません」的な悲しみです。

どうしようもない悲しみはトラウマや良心の呵責(かしゃく)となり自分を苦しめます。マリアはなりふり構わずイエスの足にすがりました。イエスは想像を超える言葉を掛けます。今まで誰がマリアの苦しみに寄り添ってくれたでしょうか。差別や叱責はあっても共感はなかったはずです。孤独で八方塞がりの中でマリアは絶望していたでしょう。

イエスはマリアの罪を背負って赦しました。赦されることで、人は「生まれてよかったんだ」と思うことができます。私は、このときイエスも泣いていたのではないかと思います。乱発される免罪符では効き目はありません。人間はそう簡単に赦せません。赦せるのは神だけなのかもしれません。マグダラのマリアを想い、またひとつの詩が浮かびました。

歌詞「涙(ティアーズ)」

古びた窓から見える
場末の街

ひとりよりふたりがいいなんて
笑わせるね
夜毎変わる恋人は
さびしさだけ置いてゆく

どうして……

だけど、酒場で遭ったあの人は
私のために泣いたんだ

情けの涙に洗われて

初めて心を抱かれたの
初めて心を抱かれたの

ごきげんよう。

草々(散歩好きの文明批評家)