【コラム・瀧田薫】斎藤幸平氏著の本書の核心は、旧来のマルクス理解を根底から覆し、エコロジーの視点からマルクスを解釈し直し、そこからさらに進めて、「人新世」(人類の経済活動が地球を破壊する環境危機の時代)を克服する方途、さらには豊かな未来社会に至るための実践論(「脱成長コミュニズム論」)を引き出したことにある。

読後感を一言でいえば、「宮沢賢治にこそ読んでもらいたかった1冊」であるということだ。宮沢と斎藤には時空を超えて共通する一つの思いがある。

すなわち、資本主義が追求する効率、利潤、経済成長を、環境破壊、労働疎外(個人は経済活動を担う歯車と化す)そしてコモン(共同体や共有財)解体の原因であると断じ、格差や生きづらさを生む資本主義社会から脱して、豊かな人間らしい生活と環境を求めようとする、その一点において両者は同じプラットフォーム上にある。

もちろん本書の狙いは、都市の生活や最新テクノロジーを捨てて農耕共同体社会に戻ることではない。21世紀の現実と向き合い、環境危機を克服し、「持続可能で公正な社会」を実現するための唯一の選択肢として、「脱成長コミュニズム」が提唱されているのである。そのことを確認した上で、宮沢の思想を本書読解のための補助線とする方法、その有効性を指摘したいと思う。

「人間と環境」に関する新しい知見

本書に対する批判の代表的な例は、「脱成長を標榜(ひょうぼう)する文明に繁栄などあり得ない」とする主張であろう。それに対する斎藤の反論については、本書を読んでいただくとして、それとの関連で、宮沢における「定常状態」(経済成長のない均衡状態)理解について簡単に触れておきたい。

バリ島は土地が肥沃(ひよく)であったことから、島民は朝夕それぞれ2~3時間働くと、その日の残りは絵画、彫刻、音楽、ダンスなど、それぞれの好む創作活動に当て、そのパフォーマンスを神へのささげものとすることで、日々の安息を得ていたとの事例報告がある。つまり、バリ島共同体をいわゆる「定常状態」に近いものとして理解した例である。

宮沢は、彼の著書「農民芸術概論」、その他において、このバリ島に強い関心を寄せている。ちなみに、井上ひさしは「バリは農業と芸能と宗教の島である。大切なのは、一人一人の人間がそれぞれ農業人と芸能人と宗教人との三つの人格を一身に兼ねていることで、宮沢賢治が見たらおそらく涙を流してよろこんだであろう」(エッセイ「演ずるバリ島」)と書いている。

井上は、1人3役をこなすバリ島人の生き方に、宮沢における「理想の人間像」を重ね合わせていたのだろう。ともあれ、今後、宮沢の思想と斎藤における「脱成長コミュニズム」思想が対比され、そこから「人間と環境」に関する新しい知見が生まれれば、それは21世紀を生きる人々にとってこの上ない贈り物となるだろう。(茨城キリスト教大学名誉教授)