【コラム・山口 絹記】出産予定日を数日過ぎた深夜2時。「破水してるかも…」と言いながら、私の部屋に入ってきた妻。「いやぁ、そんな出てないかも、我慢できるくらいの痛みだし」

いやいやいや。破水してる時点で病院直行でしょう。我慢できるとかできないとか、関係ないでしょう。車のエンジンをかけ、暖房を入れ、座席シートにビニールを敷いて、寝ていた上の娘(もうすぐ6歳)に上着と靴下を装着して病院へ。

かけていたラジオから、震災から10年、みたいな話が流れてきた。

そうか。どうやら2人目の我が子は3月11日、あの日からちょうど10年のこの日に生まれるらしい。

こんなご時世なので、出産には夫といえど立ち会えず、面会も1人だけで毎日15分まで。上の娘のときはつきっきりで、妻の背中を全力で押し続け、へその緒も切らせてもらえたし、夜遅くまで病室にいられたことを考えると、ずいぶん違った世界になっていて興味深い。

すっかり目がさえてしまった娘を寝かしつけ、落ち着かない気持ちをごまかしごまかしギターをいじってみたり、狭い部屋をウロウロ歩いているうちにカラスが鳴き始め、外も明るくなってきてしまった。コーヒーをいれていると娘が目をこすりながら寝室から出てきて、無言でストーブをつける。

娘が幼稚園に行ってしまうと、また1人家の中をウロウロ。10時が過ぎたころ、妻から無事に産まれた旨の電話がかかってきた。

15分というのは本当にあっという間で、受付から病室までの距離を考えると、産まれてきた我が子を抱っこして、ミルクを飲ませているうちに終了してしまう。上の娘はちゃんと幼稚園行ったよということ、付き添えなくてごめんね、ということ、元気に産んでくれてありがとう、ということを伝えるのがやっとで、面会時間終了の電話が鳴った。

グッド・バイよりもグッド・ラック

自分のこどもがどんな道を歩んでいくのだろう。私自身とは違った初期設定の世の中で、こどもたちはどんなことを感じるのだろう。

はなにあらしのたとへもあるぞ さよならだけが人生だ、などということばもあるが、自分のこどもたちが過去を前提に未来に思いをはせるのは、まだもう少し先のことになるだろう。私もそれに習って、こどもたちとは、先だけを見ていこうと思う。

3月11日という日にも、息子は私に違った趣を与えてくれた。考えてみれば、365日、何もなかった日なんてないのだ。特別じゃない日なんてない。

本人が実際に経験しなかった事象を、経験したものが押し付けるのも、押し付けられる側からしたら迷惑な話でしかないだろう。

3月11日はおまえさんが産まれた日。彼にとってはそれで十分だ。そのうち、彼自身の悲喜こもごもが追加されるのかもしれないが、それはもう親の領分ではない。勝手に生きるだろう。

今の自分のこどもたちに必要なのは、グッド・バイよりもグッド・ラック、だと私は思っている。(言語研究者)