【コラム・広田文世】
灯火(ともしび)のもとに夜な夜な来たれ鬼
我(わが)ひめ歌の限りきかせむ  とて

明治22年に東京本郷より水戸まで歩き抜いた正岡子規を見習い、令和版『水戸紀行』を気取り、年末休暇を利用、夜が明けたばかりのJR天王台駅から歩き始めた。

国道に近づくと、右手水戸方面、左手東京方面の道路標識に出会う。さっそく「水戸」の文字を発見し、柄にもなく気負ってしまう。では、水戸へ向かいましょう。

国道を席捲(せっけん)するさまざまな車の轟(ごう)音に追い抜かれながら、味気なく歩をすすめると、すぐに大利根橋にさしかかる。前方に利根川河川敷、利根川本体の流れはうかがえない。さらに先に茨城県は取手市の台地が望める。

子規の『水戸紀行』には、風景描写が意外と少ないが、利根川の景色については「一面の麦畑処々に菜の花さきまじりて無数の白帆は隊をたてゝ音もなく其上を往来す川ありと覚ゆれども川面は少しも見えず実に絶景なり」と賞賛している。

さて令和版は真冬の県境大橋にさしかかる。上流を望む。冬晴の空気の澄み切った朝は、雪をいただいた富士山が平に広がる景色のアクセントとなる橋上だが、今朝は残念、靄(もや)に煙っている。

ゴルフのOBは「場外邪飛」?

それにしても富士山、どこそこから富士山が見えた、見えないの見聞は昔から多い。富士見坂、富士見町などの地名が各所に残る。

子規の大先輩の芭蕉には「霧しぐれ富士を見ぬ日ぞおもしろき」との、ひねった句がある。日本人特有の、富士山展望への憧憬。北斎の富岳三十六景はまさにその世界。菜の花畑に入日薄れるころに利根川を渡った子規は、富士山を眺められなかったことだろう。芭蕉とおなじ興を覚えたか。

子規の時代、はじめて東京へ出た学生が、平野のかなたに鋭角な山容を発見し、「あっ、富士山だ」と喊(かん)声をあげたものの、友人に「あれは、常陸の筑波山だ」とたしなめられた逸話が残っている。富士山みたがり症候群とともに、東京から筑波山が見えた時代の雰囲気が伝わってくる。

さて令和版は大河を渡り、取手へ近づく。足元の河川敷はゴルフ場。冬枯れのコースにOB杭が白く列をなす。野球好きの子規、ベースボールを「野球」と訳したと知られているが、果たしてゴルフを知っていただろうか。知っていれば、OBを「場外邪飛」とでも訳したか。ちなみに子規が水戸へ向かって歩いた明治22年、イギリスではゴルフの全英オープンが、すでに回をかさねている。

「川を渡れば(子規の時代は渡し舟)取手とて今迄にては一番繁華なる町」とほめられた取手市の標識に迎えられる。さあ、ここからが茨城だ。橋を渡りきり6号国道を進むと、JR取手駅入口交差点の歩道橋に、水戸まで70キロ、土浦まで16キロとある。

うーむ、なかなかの距離。なに、まだスタートしたばかり。さらに国道を下ってみる。(作家)