【コラム・広田文世】
灯火(ともしび)のもとに夜な夜な来たれ鬼
我(わが)ひめ歌の限りきかせむ  とて。

明治22年、文科大学(現在の東京大学文学部)国文科に籍をおく学生が、寄宿舎のある本郷から水戸へ向け、徒歩で出立した。国文科の学友で水戸人の菊池謙二郎訪問を、ふっと思いついた。足にまかせ行ってみるかと、明治時代の学生は、気楽に歩きはじめる。

学生の名は、正岡子規。22歳。ただし正確には、この時点でまだ子規の号を名乗っていない。水戸から帰ったあと大喀血(かっけつ)し、「鳴いて血を吐く」子規を号することになる。しかしここでは子規、と使わせていただく。

子規は、水戸から帰ると発病、壮健だったときの旅の思い出を『水戸紀行』としてつづった。あのときは、元気だったなあと、回想している。

さて、その『水戸紀行』のコース。

東京本郷の寄宿舎を出立し、はるか前方に筑波山を遠望しての北千住、松戸、我孫子。我孫子の先で利根川を渡り茨城県に入り、取手、藤代、牛久と水戸街道を北上、土浦から石岡を経て水戸、さらに大洗にまで足をのばしている。帰路は、水戸線と東北線の汽車を乗り継ぎ(当時、常磐線はまだ開通していない)上野へ戻る4泊5日の日程の、ほとんどが徒歩だった。

子規先生、気負いなく歩きとおした。なかなかの健脚だ。病弱で知られ36歳の短命だったが、子規をふくめ明治初期の人の旅行は、まだまだ徒歩があたりまえの時代なのだ。

子規が歩いてから130

『水戸紀行』を興味深く読んだ。水戸街道歩き、馴染(なじ)みの地名のオンパレードに、よしそれならば私にも追歩できるかと、令和版我流『水戸紀行』に挑戦してみた。

子規は、「春十日許(ばか)りの学暇を得ければ」水戸へ向かったのだが、令和版は、正月前の年末休暇を利用することにした。

さて、令和版のコース。

ビールではないが、とりあえず、いや大きなビール工場のある取手から6号国道沿いに北上、土浦から石岡を経て水戸へ至り、その先、子規先生を追歩し大洗へ足をのばし、先生も眺めた太平洋の海岸まで、…、行けるか?

12月28日。

午前7時過ぎ、夜が明けたばかりのJR常磐線天王台駅に下車する。天王台駅は、千葉県我孫子市。ここから出立し利根川を渡り茨城県の南端からスタートする徒歩行を演出してみた。

天王台西口駅前からの直線路が、新興住宅街を貫通している。平日の通勤時間帯ならば、通勤通学の人波が足早にホームを目指す駅前通りだろうが、年末休暇の早朝で人影は見当たらない。もちろんこのあたり、子規先生の時代は、住宅など一軒も見当たらなかっただろう。思えば子規が歩いてから130年が経過している。景色も人も、どれほど変わったことか。

ともかく令和版我水戸紀行は、静穏なスタートとなる。(作家)