【コラム・山口絹記】とある事情で短期間に2回引っ越しをした。それも、荷造りの時間的猶予も与えられない夜逃げのような引っ越しだ。このおはなしに関しては、いつかこのコラムでも書こうと思う。

さて、私は引っ越しが大嫌いである。理由は単純明快。蔵書の箱詰めや整理が苦痛なのだ。我が家にはおそらく1200冊程度の本がある。たぶん、そのくらい…ということにしておく。これでも実家から厳選して運び出した私のお気に入りの蔵書。「趣味は読書です」という一言にも、「毎週図書館に通ってます」から「一度、実家の床が抜けました」まで幅広い規模が想定されることを忘れてはならない。

実家にはおそらく1万冊程の蔵書がある。たぶん、きっと、その程度…だと思いたい。備え付けの壁一面の本棚もあるが、そのようなものはとうの昔に飽和し、虫もわかないほどに隙間がない。増えた本はなんの疑問もなく床や廊下や机やベッドの上に積まれていく。

ちなみに本というのは、背と小口で厚みが異なるため、高く積み上げると崩れる。そのため折を見て向きを変えて積み上げる必要があるのだ。大切なライフハックである。

一度病気をして、服や雑多な荷物は処分したが、本だけは処分できなかった。これが煩悩というやつなのだろう。たまに実家の母と話すと、決まって蔵書のおはなしになる。「私が死んだらこの本は…」「いや、死ぬ前から行動に移さないと間に合わないでしょ…」というような不毛な会話がお約束のようになされる。最近では貸倉庫の話まで出てきて、いよいよ悲壮感が漂ってきた。

記憶のなかの本たちの中を漂う

妻は私の部屋に入ると、「この部屋の床、傾いてる気がする」と言って出ていく。蔵書の重みを心霊現象のように表現するのはやめてほしい。この建物は鉄筋コンクリート造りだ。きっと大丈夫。

実家の大量の書物のことを考えると、今も気分が落ち込んで、夜も寝れなくなることがあるのだが、気がつくと本屋に行って書物を抱えてニヤニヤしてるし、Amazonからは自然現象のように定期的に本が届くし、カウンセリングとか受けたほうがよいのだろうか。これ多分、心療内科的案件だと思う。

賢い友人には、「図書館使えばいいじゃない」「電子書籍にしたら?」「定期的に処分しなきゃ」と言われるのだが、図書館は利用しているし、定期的に処分はしている。そして、電子書籍の所有数はすでに考えたくない量になっている。

このようなおはなしをしたとき、一般的な反応としては「よくそこまでたくさんの本を読めますね」というものかと思う。しかし、読書というのはそもそも最初から最後まで読み通す必要はない。

本の中のことばが、別の本の中にあることばと結びついて、気がつくと、1冊の本ではなく、蔵書という本棚全体を、今は所有していない記憶のなかの本たちの中を、ことばの海を漂うように、流れに身を任せながら読んでいる。これが私にとっての読書なのだ。(言語研究者)