【コラム・田口哲郎】

前略

安倍前首相がコロナ禍を機に国土開発を集中から分散へと根本的に変える、と述べたことは前回書きました。安倍氏の言葉の重さを私は実感しています。まず身近なところからお話しましょう。

私は現在、東京大学文学部に通っています。今年春学期の講義はすべてオンラインで行われました。秋学期の講義は対面授業とオンライン授業を併用することになりましたが、結局ほとんどの講義はオンラインで行われます。

さて、講義のオンライン化は今年の春に急きょ始まったことであり、昨年度の3月まで想像だにしなかったことです。私は遠距離通学者で、本郷キャンパスまで片道2時間弱かかりますから、常々自分が大学に行くのではなく、大学が家に来ればいいのにと思っていたものです。それが現実になってしまいました。

戸惑ううちに講義は始まりました。長時間通学がないのは大変楽です。天候の心配もありません。休み時間が10分、昼休みも50分しかないので、教室間移動を急ぐ必要もないのも楽でした。

また、大教室で大人数がいる講義で手を挙げて質問するのは勇気が要りますが、オンラインだと先生にチャットで質問できたり、音声でもマイクにささやく程度で届きますから、引っ込み思案の私にはありがたい機能がありました。

オンライン講義の本当の意味と影響

最初はオンラインの快適さが目立ち、オンライン礼賛者になりました。今でも文系学部はオンラインで事足りると思っています。

しかし、オンライン講義によって、大学という場の本質が浮かび上がってきました。コロナ禍前の大学は「通う」ことが当然でした。建物が立ち並ぶキャンパスがあり、先生と学生が集い、教室で、部室で、カフェテリアで、運動場で、学問のみならず様々なことを語り合い、議論していました。人間が物理的に集うキャンパスが学生生活を総合的にパッケージングしていました。

ところが、コロナ禍はオンライン化によりキャンパスというパッケージを破りました。情報だけがキャンパスというインフラを通さずに学生に届くシステムを公然と造り出したのです。

今までもIT技術の進展によって、大学の学知は大きな影響を受けていました。特に電子書籍の登場で、紙媒体が主体である大学図書館の相対的価値は落ち込んでいました。タブレット端末があれば、アレクサンドリア図書館並みの書籍情報を検索・保有することができるからです。

知は情報です。古来人間は情報を得るために大学に集いました。IT技術は情報利用を便利化した反面、大学図書館の権威をなし崩しにしてきたのです。オンライン化はそれに究極の一手を打とうとしています。図書館のみならず、大学の権威そのものを失わせる可能性を秘めているのです。

知のIT化の波がアカデミズムに達しました。これから……、紙幅がないようです。その問題については次回の便で。ごきげんよう。

草々(散歩好きの文明批評家)