【コラム・山口絹記本についているひもには名前がある。あれはしおりひもというのだ。新しい本には、ひもがくるんとまるまってページに挟まっている。それをピンと伸ばして最初のページに挟むところから、おはなしは始まる。

しおりというのは、そのおはなしの中で自分がどこに立っているのか、迷子にならないための目印だ。これがあるから、安心しておはなしの中を好き勝手に歩いていられる。しおりひもがついていない本には、自分の好きなものを挟んでおけばよい。

しかし、本の外の世界にはしおりがない。だから、気を抜くと自分が今どこにいるのかすぐにわからなくなる。どこにでも置いておける、消えないしおりがあればいいのにな、と、ときどき思う。走りすぎて自分の居場所がわからなくなっても、気がついたら知らない場所にいても、怖くない。

何をしおりにしたらいいのだろう。大切な人だろうか。自分の家? よく行く喫茶店? 残念ながら違う。人も、家も、喫茶店も、いつかはカタチを変えて、無くなってしまう。それではしおりにはならない。そういうものたちは、しおりではなく、本でいったら文章だからだ。自分のおはなしに登場するものを、しおりにしたって仕方がない。

私にとってのしおりとは、何だろう。今まで過ごしたおはなしと、今現在、そしてこれから先に紡がれるおはなしのなかで、ゆるぎない目印になるもの。目に見えるものでは駄目なのかもしれない。カタチがあるものではいけないのかもしれない。

自分のおはなしのしおりは“ことば”

小さいころから考えていたこの問題の答えを見つけたのは、大学の卒業式の日だった。

式から帰ってくると、4年間お世話になった教授からメールが届いた。そのメールには、祝辞とは少し違うことばがあった。これから生きていくなかで、人生の指標になるような、支えになるような、とても力強くて、優しいことばだった。

そのメールを読んだとき、自分のおはなしのしおりは、“ことば”なのだということに気がついたのだ。少し不思議なおはなしだ。本のしおりはことばに挟むものなのに、私のおはなしのしおりは、“ことば”なのだ。でも、それはとても自然に、ひらりひらりと落ちてきた桜の花びらが、すっと肩に乗るくらいに、音も無く私の心の中に落ちて落ち着いた。実はもう、たくさんのしおりを持っていたのだ。

だから、ある日突然、失語で自分の中からことばが消えたことは、私にとって明確な理由を持って、事件だった。私はことばと同時にしおりをなくしたのだ。同時に、1秒たりとも迷わず、ことばを取り戻すために努力ができた。面白いものだな、と思う。

日々、光陰矢のごとしと過ぎていく日常の中で、今この瞬間に必死になっていると、ついいろいろなことを忘れてしまう。いつも一緒にいた大切な人、好きだった場所、よく聴いていた音楽、そういったものがあっという間に過ぎ去って、薄れていく毎日だ。だからこそ、大切なことばを心に刻んで、しおりにして生きていく。(言語研究者)