【コラム・古家晴美】今年は長い梅雨、夏の猛暑と続いたが、ようやく秋の気配が感じられる。先日、旬を控えまだ小ぶりの栗の実をいただき、渋皮煮を作って初秋の味覚を楽しんだ。

茨城県の栗生産量は、10年以上、全国1位を誇っている。県南地域の生産地としては、かすみがうら市、石岡市をはじめ、つくば市、土浦市などが挙げられる。これから秋が深まるにつれ、店頭にも多く並ぶことだろう。

栗は縄文時代の遺跡からも出土され、日本人にとっては馴染(なじ)み深い食べものだ。ニホングリの原生種と考えられているシバグリは、北海道中部から九州南端まで自生しており、それを採取して食用としていた。7世紀末になると、諸国で栽培を奨励する記録が残っており、栽培の歴史も古い。最古の産地は、丹波地方とされている。

茨城県で本格的に栽培され始めたのは、近代に入ってからだ。しかし、1936(昭和11)年には、他県を圧倒して大量の茨城栗がアメリカに輸出されている。では、「栗王国茨城」の礎は、どのように築かれたのであろうか。

下志筑村 (しもしづくむら、旧千代田村、現かすみがうら市)の長谷川茂造は、1898(明治31)年に山林を開墾し、苗産地(川口市安行)から取り寄せた苗を植え付け、栗栽培を始めた。当時、このような形での栗園経営は全国的にも珍しく、周囲の人を驚かせたと言う。

「芋名月」、「豆名月」「栗名月」

その後、丹波栗や栗の接ぎ木法について研究していた水戸出身の八木岡新衛門が、郷里に戻り千代田村の栗栽培を指導した。千代田地方では、1919(大正8)~25(同14)年にかけて、栗の栽培面積が2倍、生産量が1.6倍へと急成長を遂げた。

また、東京帝大農学部で八木岡の後輩、中志築村の大地主・兵藤直彦も、冷害に強い栽培方法を見つけ、新品種の育成に努めた(『常陽藝文』1997年10月号)。このようにして、現在の「栗王国茨城」は、これらの人々の献身的な努力によって支えられてきた。

その後も、大粒の品種「筑波」や渋皮がきれいに剥(む)ける「ぽろたん」など新品種に改良され、茨城の栗は進化し続けている。

ところで、今年の「十五夜」は10月1日だ。供物として、月見団子とススキを飾るが、地域により芋を供えるところも多く、「芋名月」とも言う。これに対し、旧暦9月13日(今年は10月29日)は「十三夜」で、「豆名月」「栗名月」とも呼ばれている。栗や豆を13個ずつ供える。

月の出方を見ながら、十五夜は大麦、十三夜は小麦の作柄を占うものとされてきた。この晩に晴れていれば豊作になるという。十五夜の中秋の名月を鑑賞する慣習は、古代に中国から伝来したが、十三夜は日本独自のもので、十五夜と両方そろわない「片月見」を嫌った。国産小麦の自給率が低迷している昨今だが、今年の占いはどのように出るだろうか。(筑波学院大学教授)