【コラム・奥井登美子】沢村貞子さんは1996年に亡くなったが、一時は日本を代表する幅の広い俳優で、私はこの人の気どりのない演技と、会話の中の早口の浅草言葉がことのほか好きであった。

この間、NHKテレビの料理番組で、貞子さんの大学ノート26冊分の家庭料理のレシピを紹介していた。沢村さんは明治41年(1908)に東京の浅草で生まれて育った人である。貞子さんだけではない。この時代に育った東京下町の女たちは、いわゆる「お惣菜(そうざい)」作りにかなりの知恵と情熱を傾けていた。

私の母も京橋区新栄町生まれの下町育ちで、お惣菜作りの情熱はハンパではなかった。

「お母さんは死ぬとき、最後の食事は何を食べたい?」

「そうね、フランスパンがいいわ、バターのいいのをつけて」

洋風のパンと言われたのが、私にはちょっと意外だった。近所に、芥川龍之介の父親が経営する牛乳屋さんがあって、そこへ行けばバターもチーズもいろいろな種類のものが手に入ったという。明治生まれの東京人あこがれの食は,洋風のお惣菜だったのかも知れない。

父の鉄砲洲(てっぽうず)小学校の同級生、尾崎喜八さんの詩にも、外国への憧憬(しょうけい)がちらちら見える。

常陸の醤油は「おひたじ」

母はお醤油を「おひたじ」と言っていた。

土浦に来ると、家の人たちが食事に「おひたじ」をたくさん使うので驚いていた。醤油は常陸筑波の産、土浦から船で江戸に運ばれて普及した調味料なので、「常陸」が下町風になまって「おひたじ」という呼び名になったらしい。

母も沢村貞子さんが好きだった。私が沢村さんの声、言葉のテンポ、リズムが好きだといったら、沢村さんのリズムは浅草の言葉だから真似してはいけないと言われてしまった。真似するどころか、私には、浅草と京橋の言葉のリズムの差さえわからない。

「真似なんて、私に出来っこないわよ。安心して」

東京にも地域によっていくつかの方言があることはわかっていたが,私には浅草と京橋の言葉の区別さえつかない。母の大嫌いな山の手のいわゆる「ザーマス言葉」は「そうざあます」(ございます)がなまったものらしい。

「おひたじ」のように、お惣菜の中に残っていた調味料や器具の東京方言、もっと、母に聞いておけばよかったと思う。(随筆家、薬剤師)