【コラム・浅井和幸】「情報パンデミック」という言葉が、ラジオや新聞から私の目と耳に入ってきました。「パンデミック」とは「広範囲に及ぶ流行病」とのことですから、「情報」が「広範囲に及ぶ流行病」のような状況をつくり出しているという意味ですね。

うまく伝言ゲームができずに広がるうわさ話。一見科学っぽいことを言って、宣伝したり、先導したりする―。不安が大きいと、このようなデマに正義感や愛の気持ちで加担してしまいやすくなります。「今は紙不足だから、ティッシュペーパーをたくさんストックした方がよい」「河原の石を風呂に入れると殺菌になる」という具合に。

それは、政府や知事になるような、頭のよい人たちですら起こしてしまいます。人は誰しも、不安が大きくなると、物や情報を手元に置いて安心したくなるものです。さらには、自分が持つそれらの物や情報を、人に認めて欲しくて行動してしまうのです。

今は、誰もがどこでも、多くの人に情報発信ができるようになっています。間違うことは仕方のないことですが、感情的過ぎないかを顧みることは大切ですよね。

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不安感を利用して、「注目」「名声」「金」などを手に入れようと、謀略をめぐらして忍び寄ってくる人が間違いなく現れます。安心するためにそれに飛びつき、それがデマだと知らされて、さらに不安が大きくなります。

不安が強くなると、自分より弱いものをたたきたくなります。自分は弱者だからという免罪符を持って、さらに弱者をたたいてしまう心理です。意識高い系の人(今は言わない?)は、自分より強いものならばたたくのは正義だと主張するかもしれませんが、反論がない相手や仲間がいないと同じような事態になります。

批判や愚痴というものは、一時のストレス解消になり、確かに必要です。しかし、直接のストレス解消にならずに、さらに強い批判や愚痴を追い求める状況―つまり、依存の状況になりかねません。

そうならないために、自分の言動から得た結果を観察して、次の言動につなげるような軌道修正を繰り返すことが大切です。批判や愚痴をやめる必要はありません。しかし、それと同じぐらいの楽しいことをしたり、口にしたりすること(プラスのストロークと言われることもあります)や、共感する心を持つことが大切です。

どうしても私たちは、どちらが上か下か、正しいか間違っているか、善人か悪人かという、0か100かの理論に陥ってしまいがちです。ディベートや裁判のようなルールでの振る舞いならば仕方ないのですが、日常生活では事実から離れていくことになります。しかも、苦しいとなれば、あまりよいことはないでしょう。

それぞれが、よりよい状況になるように、意見や気持ちのやり取りを考えましょう。と言っても、「批判」の本当の意味は、誹謗(ひぼう)中傷ではなく、正すために論じることも含まれますから、敵をやり込める言葉は「批判」ではないはずなのですが。(精神保健福祉士)