【コラム・先﨑千尋】1月25日から27日まで熊本県水俣市に行ってきた。そして、日本有機農業研究会が主催した「全国有機農業の集い2020 in水俣」に参加した。水俣行きは何度目になるのだろうか。行くたびに新しい出会い、触れ合いがある。今度の集まりには全国から400人を超える人が集まった。これまでの2倍の参加者になったとか。やはり一度は水俣に行ってみたいという有機農業関係者が多いということなのなのだろう。

会場は水俣市文化会館。20年前にここで開いた環境自治体会議を思い起こす。集いの初日は、両親と祖父母が水俣病患者だった杉本肇さん、水俣病互助会会長の上村好男さんら現地の人たちのリレートーク、地元の袋小学校の子供たちの元気な「水俣ハイヤ節」、13もある分科会と、盛りだくさんのスケジュール。「水俣ハイヤ節」は、2000年に水俣病で苦しむ地域の再生を願って創作された踊りだ。分科会では「被害者が加害者になってはいけない―水俣病事件と甘夏栽培の日々」「水俣の海 私は水俣で魚屋になった」「水俣の海に農薬を流したくない―若手お茶農家が描く未来」など、水俣病に苦しみながら明日に期待する報告が目立った。

夜は楽しみの交流会と懇親会。食材は地元地域の有機野菜や無農薬茶。酒も他では飲めない、自然栽培や合鴨農法で栽培したコメなどを使った日本酒と焼酎がずらり並んだ。別の部屋では、自家採種した種苗交換会が開かれている。うまい酒を飲み、地元ならではの自慢の手料理をいただきながら、古くからの友人に会い、情報の交換をし、新しい人に出会う。至福の時だ。私は参加しなかったが、夜更けまでの夜なべ談義もある。

市・県・国の対策は間違っていた

翌日も、有機農研総会、映画会、「私たちのまち水俣-水俣という存在を希望にしたい」というトーク&ライブ、ワークショップ、写真展、現地見学会などがあったが、私は別行動で水俣のまちを歩きたいと考え、旧知の大澤忠夫さんの家に向かった。大澤さんは1973年に水俣に入り、陸に上がって甘夏ミカンづくりを始めた水俣病患者の漁師たちの活動を支え、現在も親子でミカンの販売などに奔走している人だ。40年以上の付き合いになる。

彼の案内で、チッソ水俣工場、水俣病資料館、チッソがかつて水俣病の原因となった有機水銀を排出した百間排水口、水俣病歴史考証館を回り、水俣市の山間部にある愛林館に向かった。この施設は市が作ったむら起こし施設で、今後2000年間、この地に人が住み、森と棚田を守っていける村づくりを目指すという。地域固有の風土と暮らしが醸し出すたたずまいを風格あるものにするため、生活環境の保全、再生、創造を行っている「村まるごと生活博物館」の活動が面白い。東大卒という館長の沢畑亨さんにも久しぶりに会えた。

そこからさらに山奥にある吉井正澄さんの家を訪ねる。吉井さんは元水俣市長で、水俣病患者と患者団体に「市・県・国の水俣病対策は間違っていた」と謝罪し、政治解決を果たした人だ。環境モデル都市としての「新しい水俣」を提唱、実践した。88歳だが、元気そのもの。今の市の行政、議員たちには「水俣をどうするのかというビジョンがない」と危機感を募らせる。今回も多くの収穫があった水俣行きだった。(元瓜連町長)

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