【コラム・山口絹記気を抜くと重たい眠気にまぶたを閉じそうになる。意識が飛びかけるたび、ピアノのかすかな音色が聞こえた気がした。

「脳内の血管異常、感染症の可能性もあります」。医師の発言内容を深く吟味する余裕がない。脳内の高級梅干しに関しては専門家に任せよう。ここまでくればすぐに死ぬことはない。まずは状況把握、それから自分にできることを考える。

振り返れば、CT画像を見たまま青ざめている妻。娘はあくびをしている。看護師が来て左腕に点滴を打たれる。針を刺された瞬間、視界の隅に青白い火花が散った。今のは? ピアノの音色が突然大きく聞こえ始める。看護師の足音が頭の中に鳴り響き、全身を踏みつけられるような痛みが走る。静かにしてくれと叫びたいが何も言えない。

身体がぐるんと一回転した。いや、視界が回ったらしい。遠のく意識に全力ですがりつきながら、不思議そうに私を見つめる娘と目があった。まだ見ぬ娘の幼稚園児姿を想像し、心臓を冷たい水で洗われたような気がした。

この冷たさはなんだ? 何も、思えない。ことばが、消えていく。私は、何かを思わなければならないはずだ。ただ、胸に冷たさが残る。ノイズのように言語化された思いが立ち現れては消えていく。

ピアノの旋律が聞こえる 

見たい。見たい? 何を? 娘の。娘の、何? 何が…

ストレッチャーのタイヤがカラカラと音を立てる。ゆらめく蛍光灯と、時折見える妻の顔、誰かの声。心臓が膨らむような感覚。息ができない。体の奥が痛くて、苦しくて、縮こまることしかできない。

一瞬の浮遊感の後、私は背中から水に落ちた。全身の触覚が水中にぶちまけられる。音もなく遠ざかる水面に向かって、数多のエメラルド色に輝く小さな直方体が飛び去っていく。自分の身体の形がわからない。水になってしまったみたいだ。視覚だけが残っていた。水面が見えなくなると、唐突に土の匂いがした。朝霜に濡れる緑の匂い。鼻先から身体全体に触覚が戻ってくる。私は霧の立ち込める森の中にいた。目の前には樹冠の大きさも把握できないほど巨大な楠が立ち、足元の枯れ葉の上には点々と落ちている黒い実。ツンと鼻をつく香り。水たまりを避けながら一歩一歩近づいて、右手で幹に触れる。

「痺れてない。それに、話せる。…生麦生米生卵」

こみ上げてくるままにくつくつと笑ってしまった。皮肉なものだ。これが夢なのはわかっているが、意識を失う前よりよほど健全な身体だ。目を覚ましたとき、私の身体はどうなっているのだろう。快復しているとは思えない。このままずっと、夢の中にいたい誘惑に絡み取られそうになる。

しかし、今なら目を覚ますことができる。私は額を幹に打ち付けようとして、動きを止めた。ピアノの旋律が聞こえる。目を開けると、目の前の楠がサルスベリになっていた。振り返ると、どこまでも続く野原が月明かりに照らされ、やさしい風にそよいでいた。遠くから聞こえる雷と、ピアノの旋律。

私は、その曲名を思い出した。-次回に続く-(言語研究者)

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