【ノベル・広田文世】

灯火(ともしび)のもとに夜な夜な来たれ鬼

我(わが)ひめ歌の限りきかせむ とて。

幕末、四分五裂の内紛に明け暮れる水戸藩にあって、尊王攘夷を標榜(ひょうぼう)する改革派の、なかでも激派と称される一派を藤田小四郎という若者が動かしていた。

天保十三年(1842)、水戸藩の尊王攘夷(そんのうじょうい)思想を確立したひとりの重鎮、藤田東湖(とうこ)の四男として生まれた小四郎は、父親の影響を多分に受けて幼年期を過ごし、14歳のとき、水戸藩士加倉井砂山(かくらいさざん)の日新塾に入門、洋式兵術、鉄砲射撃、数学、天文、地理学を学んだ。さらに、水戸藩弘道館へ入学、尊攘思想を深めてゆく。

安政七年(万延元年、1860)に起きた桜田門外の変(水戸浪士と薩摩藩士による大老井伊直弼暗殺事件)に激しい刺激を受け、いっそう攘夷実行の念を先鋭化させる。そうした折、藩目付山国兵部(やまぐにひょうぶ)配下として藩主慶篤(よしあつ)京都出立に随行する。この京都行きが、藤田小四郎の眼を大きく開かせることになる。

京都で、尊王攘夷思想が時代の潮流となっている現実を目の当たりにする。水戸藩だけの地方思想と狭い視野でとらえていた尊攘が、何と、京都の政治の中心を動かしている。小四郎は、大きなカルチャーショックを受けた。しかも、その尊攘思想の根源は、父藤田東湖や同じく水戸藩の会沢正志斎(あいざわせいしさい)たちの論考だった。

小四郎は、思想の浸透に自信をもち、京都で活躍する各藩の尊攘論者から「藤田東湖先生のご子息」と、一目置いて見られる処遇を誇らしく受け入れた。

筑波山大御堂に180人が集結

水戸へ戻った小四郎は、攘夷の実行こそが時代の枢要(すうよう)と、同志の糾合を計ってゆく。広く関東一円の、郷士、富農、医官、神官まで含めた層へ遊説してまわり、決起への参加を呼び掛けた。

文久四年(1864)、常陸国府中(現石岡市)の紀州屋を本陣とし、決起の最終準備に入る。そのときすでに、60人ほどの同志が集まっていた。腹心の竹内百太郎らと計り、水戸町奉行田丸稲之衛門(たまるいなのえもん)を大将に迎え、筑波山へ向かった。

3月27日、筑波山大御堂(おおみどう)に集結した同志は、180人ほどにふくれあがっていた。多くが、藤田小四郎の遊説に賛同し、ついに筑波山挙兵を聞きつけ参集した者たちであった。

一行は雄叫びを挙げると、前藩主斉昭(なりあき)の位牌をおさめた白木の神輿(みこし)をかつぎ隊列を整え、筑波山から堂々と出陣して行った。

このとき、小四郎23歳。目指すは、日光東照宮。徳川幕府の聖地から攘夷実行の大号令を発する野望だった。(作家)

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