【コラム・斉藤裕之】ぎりぎりにならないと始められない。これ、ほとんどの人に当てはまるみたい? というわけで、今年で9回目となるこのエッセイと同名の個展「平熱日記」展の準備を始めないと。

じたばたしてもしょうがないので、いつものように「いりこ」を描きます。冷凍庫から瀬戸内産のいりこの袋を取り出して、まずは絵のモデルを選抜。題して「ミス海バース」。しかし器量のいいのを見つけるのに一苦労です。

この場合の器量よしとは、まず左向きの美人で、いい感じのくねり具合。首のひねりやお腹辺りのよじれもポイント。ひれなんかも、ある程度ついていてくれる方がいいのですけど。

最終選考に、なんとか7匹残りました。残念ながら、選に漏れた方々はみそ汁の出汁となった後、フーちゃんの餌です。あ、運よくモデルに採用されても、描き終わると同じくフーちゃんがパクリですけど。

あの展覧会 「何が問題なのかわからない」

さて、表現について、あれこれと話題となっているようです。件(くだん)の展覧会について「何が問題なのかわからない」というのが、かみさんとの共通した意見です。例えばあの少女の像。

そもそもあれは一個人の表現ではなく、やんごとなき事情から発注されたモニュメントでしょ。ですから、美術作品として、私にはキッチュな張りぼてにしか見えません。そもそも、「表現」という以上責任が伴うもの。つぶやきやデモのシュプレヒコールとは次元が違うのですから、作者と展示企画者側にその覚悟が必要です。

実は、花鳥風月を愛で描いてきた国の人にとって、政治や宗教その他諸々のイデオロギーを背景にした表現は苦手で馴染みもなく、現代という時代において日本の美術表現の弱点でもありました。

例えば、負の経験やマイノリティーの意見がモチベーションとなりうる表現。近年多くの国際展では、このような作品展示は少なからず世界の主流でした。要するに、不自由な表現こそが世界の現代美術の潮流であった時代に、日本の作家、作品はその流れに乗りきれずにいたのです。

ですからある意味で、今回、エキセントリックなコンセプトに一番面食らったのは政治家やお役人。その対応もお粗末。かねてから、文化、芸術に対しての見識、造詣が足らなすぎる。理系もいいけど、人文系の教育に力を入れないと真の国力は目指せない。実は不自由なのは文化行政を司る人々?

私の場合ですら、いくら平熱で描いているとはいえ、人様にお見せできるものとそうでないものはあるわけで、強いて言えば、あくまでも平熱を装いきることが表現としての責任でしょうか。というわけでアナーキーな「平熱日記vol.9」、今年も始まります。(画家)

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