【コラム・山口絹記】私たちは、世界の一部を、ことばというフィルターを通して見ているのかもしれない。

最初の失語症発症から2日後の夜、日課のオンライン英会話の直後に異変が起きた。英会話中に思い出せなかった単語を調べようとパソコンに向かい、検索窓に文字入力しようとキーボードに手を乗せたのだが、入力しようとしても指が動かない。

うろたえている時間はない。観察開始である。私は用意しておいたチェックリストを机に出す。大丈夫。チェックリストの文字は理解できる。とりあえずきっかけが重要かもしれない。適当にキーボードを叩いてみる。

「hyrmgjf」

思わず笑ってしまう。ことばと失うとは、このことである。この場合、驚いてことばを失っているのではなく、ことばを失って驚いているのだが。

ローマ字入力ができないことは予想の範疇(はんちゅう)だったので、紙のメモ帳を開いて文字を書こうとするも、やはり文字一つ書けない、というより何と書けばよいのかすらわからなくなってしまった。今度は用意しておいた日本語文字列をメモ帳に書き写してみる。これはできた。しかしそれは、文字を書いているというより絵を描いている感覚に近かった。

書き終わった文字は読めるが、文字を書いているという意識は全く無いのだ。続いて自分で書いた文字を音読してみる。これはできなかった。最後によく聴く曲のメロディーを聴きながら歌えるか試してみる。これもできない。なるほど、なかなか興味深い状態だ。

ことばを生成する能力がなくなる

発症から5分。まだ症状が収まる様子はない。デジタル時計、アナログ時計、ともに時刻を読み取ることはできているようだった。全身をくまなく触ってみる。麻痺はなさそうだ。

まだ時間がありそうなので、A4の無地の紙に書いておいた大量の線分にチェックを入れていく。もう一枚の紙に書いておいた簡単な家と花の絵を描き写す。症状が収まった後に見直せば、半側空間無視が起きているかわかるかもしれないと思ったのだ。

やることがなくなってしまった。何か考えようとしても、新たなアイデアは思い浮かばなかった。ことばを生成する能力がなくなるというのはこういうことか。複雑な思考はできなくなるらしい。しばらく文字が並んだPCモニターと散乱した紙を眺めていたが、私は椅子の背もたれによりかかり目を閉じる。

そうか、これがことばのない世界か。きっと、まだことばを知らなかったころの娘の見ていた世界だ。目を開くと、名前のわからない様々なものが目の前に広がっていた。思考することばが消えていく。静かだった。

ちょうど18分経った頃、視界に変化を感じた。明転するとか、色が変わるというのではない。“ことば”というフィルターが視界にかかったのだ。世界の認識に再起動がかかったような感覚。

間違いない。これは失語だ。私の知識ではブローカ失語に近いが、正確な分類は難しそうだ。-次回に続く-(言語研究者)

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