【コラム・奥井登美子】紙幣に印刷される顔に、樋口一葉が登場した時、これ以上の貧乏はないような生活をした一葉が皮肉にも、日本中の紙幣に顔が貼り付けられるなんて、本人は夢にも思わなかったに違いない。野口英世も日本ではひどい貧乏暮らし。それなのにお金の顔になってしまった。

薬局で1日何回かレジをたたいて、お札をひっぱり出し、樋口一葉の顔を拝むたびに、なぜか「ごめんネ」と言いたくなってしまう。これは歴史の中の皮肉なのだろうか。

令和元年のお札の顔に、北里柴三郎が登場するらしい。明治25年(1892)、北里柴三郎は7年のドイツ留学から帰ってきて、福沢諭吉が個人的に建てた「伝染病研究所」の所長になる。明治26年、北里柴三郎は福沢諭吉の援助で、「土筆ヶ岡(つくしがおか)養生園」という名の日本で初めての結核療養所を芝の白金三光町につくる。

福沢諭吉も7歳で天然痘、22歳で腸チフスに罹(かか)り、腸チフスでは重症だったらしいが、一命を取り止めたという。そのような体験を通して、慶応義塾を創立して日本を近代化に導いた以上に、医学分野への貢献も積極的に行われ、明治時代の日本に新しい施設をつくった。

明治の薬剤師 平沢有一郎の手紙

明治25年、薬剤師は、それまでは県の認可制度だったのが国家試験になり、茨城県では初めて平沢有一郎が合格し、県で初の国家試験合格者となる。彼は北里柴三郎を尊敬し、土筆ヶ岡養生園に就職したらしい。震災時、わが家の倉が破損して整理をした時、土筆ヶ岡養生園便箋の平沢有一郎の手紙が何通か出てきた。

その手紙を読むと、当時の一般市民のコレラなど伝染病に対する考え方、病原菌とか滅菌などという言葉さえもなくて、ただ消毒、毒を消すと言って、町役場の人や巡査が石灰をばらまく。わけのわからない伝染病で、次々に人々が死んでいく。その中での混乱した市民の姿が浮かびあがってくる。

北里柴三郎先生から直接教育された当時の細菌学と、市民との反応の解離(かいり)に翻弄(ほんろう)された明治人の姿が見えてくる。(薬剤師、随筆家)

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