《土着通信部》32 二宮金次郎さん 本を持つ左手を失う

左手を失った二宮金次郎は何を思う(許可を得て撮影しています)

【コラム・相澤冬樹】まきを背負いながら本を読んで歩く姿に見覚えはないだろうか? 二宮金次郎像。尊徳の名でご存じかもしれない。その人物像をめぐっては時代時代で評価が様変わりしたが、金次郎像も時の世相をさまざまに映してきた。県南の小学校の校庭で見つけた像は、どういうわけか左手の先が欠けている、いわくありげな立ち姿だった。

二宮金次郎(1787-1856)は、江戸時代後半の思想家で、全国各地に赴いては諸藩や村々の財政立て直しを指揮した。その方法は、分をわきまえ勤労を貴ぶもので、「報徳仕法」と呼ばれた。必ずしも成功例ばかりではなかったが、茨城県内でも筑西市やつくば市でその事績をたどることができる。

明治の末には、財政再建の手腕というより、苦学して立身出世を果たしたことが強調されて、国定教科書の修身(道徳教育)の象徴になった。右手で背負子のひもを握り、左手に書物をかざしてうつむき加減に歩く姿は「負薪読書図」というのだそうだ。戦前の滅私奉公のアイコンであった。

その像は各地の小学校などに多く建てられた。特に昭和初期はブームの様相を呈したとされ、銅像も少なくなかった(猪瀬直樹『二宮金次郎はなぜ薪を背負っているのか?』文春文庫)という。日本が戦争に突入すると、金属供出で銅像は“出征”することになるが、代替のコンクリート像が各地に広がり、戦後の小学校校庭にも多くが残った。

しかし、戦後の民主教育で、金次郎像は否定すべき戦前教育のシンボルのように扱われ、さらに交通戦争の激化した高度成長期のクルマ社会にあっては「ながら歩き」のイメージが敬遠された。金次郎像が姿を消すなかで、「報徳仕法」の信奉者たちは座像につくり変えるなどして顕彰を続けた。この夏には映画「二宮金次郎」(五十嵐匠監督作品)が公開され、再評価の機運もあるらしい。

そんな時節に、県南の小学校でこけむしたコンクリート製の像を見つけた。台座を含み1.5メートルほどの高さ、小ぶりな印象だ。その像の左袖口から先、本を持つ左手が欠けている。切り口はすっぱり落とされた風ではなく、ごつごつした面をさらしている。台座に銘などは見られない。

学校管理の教育委員会に聞くと、「いつからこの学校にあり、いつから手がなくなったか、まったく分からない。学校百周年記念誌や図書館など探したが昔の写真、資料類は見つからなかった」という。学童保育に使っている校舎を建設した際、一旦倉庫に収容して、校舎完成後、現在地に移設したということだが、その前後に左手があったかどうかも確認できない。

授業で二宮金次郎を取り上げることもない。学校の教頭は「児童から聞かれれば常識的な範囲で金次郎さんの話をするが、像について質問されたことはない。撤去も考えていない」とないないづくし。歩きスマホをたしなめる教材に使うなど、「考えたこともない」そうだ。

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