【コラム・浅井和幸】そもそも人には、「生きる本能」と「死の本能」があると、かつての偉い医師や学者は考えていました。「死の欲動」とか「タナトス」と呼ばれます。その後、受け継がれたり、批判されたりして、頭の良い人たちの中では難しい論理が繰り広げられていますが、そのようなことは置いといて、確かに「死にたい」と考える人たちは多くいます。

決して少数ではなく、かなりの人が感じたことのある気持ちでしょう。「死にたいという気持ちが分からない。死にたいと思ったことがない」という人でも、全てを消し去りたい、どこか遠くに行きたい、過去に戻りたい、記憶をなくして人生をやり直したい、と考えたことはないでしょうか?

それぐらい追い詰められる場面が、人生の中には存在します。大きな危機に対して、無力な自分。自分以外の人間がすべて、ずるく、器用に生きていて、何の苦も無く楽しくしているように感じるものです。

何の役にも立たない自分が生きている意味がない。何の楽しみのない人生なんて意味がない。いつかは死ぬんだから今死んでも同じだ。

今が苦しく、先に明るい兆しが見えない、味方がいない、自分がどのように動いても無意味、これからも怖いことが起こる不安がある、などの状況が続くとき、もう打つ手がないと感じるようになるものです。

信頼できる人に話を聞いてもらう

イスラエルの健康社会学者アーロン博士は、首尾一貫感覚という概念を提唱しました。全てのことには意味があり、今や先のことが把握できて、自分や仲間と対応すれば何とかなるという感覚が強い人が、健康であったり、幸せであったりするということです。

それとはまったく反対の状況であるとき、どれほどの苦しみがあるかは当人にしか分からないことです。そのとき、周りにできることは、「知ること」「分かること」ではなく、「知ろうとする、分かろうとする努力をする」ことです。分かった気になることが、一番危ないことと考えてください。

では、当人はどうすればよいでしょう。普段から尊敬している人、信頼できる人をつくっているのであれば、その人に話を聞いてもらうこと、落ち着いたらその人と対応を考えることです。

尊敬できる人、信頼できる人なんて誰もいない人は、できるならば家族、できないのであれば、浅井心理相談室か下記の相談窓口に連絡してください。どうしようもない、もう死ぬしかないような苦しみの中から、何とか生き延びて、あのとき死ななくてよかったという人を私はたくさん知っていますから。(精神保健福祉士)

相談窓口 茨城いのちの電話

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