このコラムでは、言語について研究している私が、日々の生活の中でことばについて感じたことを徒然(つれづれ)なるままに書いてきたのだが、連載を担当させていただくきっかけとなったのは他でもない、私自身の“ことばを失う”という体験だった。

コラムニスト紹介のページにも書かれている通り、私は数年前、脳動静脈奇形(AVM)という先天性の脳内血管の奇形が原因で、脳出血を経験した。出血により影響を受けた脳の部位が偶然、言語と右半身の機能の一部を司(つかさど)っていたのだ。(正確には、私が失った言語機能は母語である日本語に限られたものであり、第2言語の機能は失われていなかった)

1年前、連載を始めるにあたり、まず私自身の経験を説明する必要があるとも考えたのだが、私はためらってしまった。なぜなら、ことばの無い世界をことばで語るというのは矛盾したことのように思えたからだ。そもそも、自分自身の経験とはいえ、説明するのが非常に難しい。

さらに、私は医療従事者ではない。言語研究者だ。この場は私個人のブログではなく、NEWSつくばという地域メディアのコラムであって、病気のことについて誤った情報を発信してしまう懸念もあった。

しかし、1年間連載を続けてみて、私が日々の生活の中で感じる、ことばについてのあれこれの背景にある経験を、改めてきちんと説明する必要を感じるに至ったのだ。

言語研究者の失語体験の記録

人の記憶などあてにならないものだが、幸い、私は毎日日記を書いており、失語状態から回復してすぐに、当時のことをすべて記録に残している。入院中の面談票などもすべて残しているので、できる限り私の記憶には頼らず、記録をもとに当時のことについて書こうと考えている。

これからここに記すおはなしは、家族も含め、まだ誰にも話したことのないおはなしだ。少し不安は残っているが、それでも私は物語ってみようと思う。ことばを失うということが、一体どういうことなのか。あのとき、私は何を見て、何を感じていたのか。

これは、言語研究者の失語体験の記録であり、私のおはなしだ。-次回に続く-(言語研究者)

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