【コラム・奧井登美子】高校3年の時、私は、芭蕉の「奥の細道」の絵巻づくりに熱中していた。那須温泉の近くの殺生石の上で、蝶や蜂が死んでいるところを描かなければならない。その石の中に天然の砒素(ひそ)成分が入っていて、昆虫を殺してしまうという。砒素で死んだ昆虫がどういう姿なのか、想像できなくて困ってしまった。

「薬科大学へ行けば、砒素の毒なんか、すぐ教えてくれますよ」。私は、大学は文学部を希望していたが、父は薬科大学を受験しろと主張して、薬への興味をそそのかす。祖父の加藤尚富は、京都二条城の御製薬所だった加藤翠松堂(四日市)の出身という。父としては親戚の手前、4人の子供のうち1人は薬剤師にしておかないとまずいと思ったのかも知れない。

私は余り気がすすまないままに、上野桜木町にある東京薬科大学に入学した。大学も新制大学になって3年目、教科にどんな教師を選ぶか手さぐりの時代だったのだろう。本郷の東大から自転車で5分と近いせいか、講師は東大の若い先生が多かった。

叔父が森永砒素ミルク事件の渦中に

「衛生裁判化学」といういかめしい名の教科は、衛生化学と毒物学の混ざりで、東大助教授の奥井誠一が講師だった。身体と声の大きな人で、私はこの人に砒素毒の質問などして喰(く)いついた。クラス委員の私は、点数の交渉で、床が腐ってへこんだ東大の実験室まで押しかけて行ったこともある。

ちょうどそのころ、森永砒素ミルク事件があった。粉ミルクの添加物のカルシウム剤の中に砒素が混入していて、多くの子供が犠牲になった痛ましい事件だった。私の母の弟、叔父が森永の本社に勤務。叔父は毎日警察に行って帰って来ない。私は、こういう事件の真っ只中に放り込まれた企業の社員の悲劇をつぶさに味わったのだった。この事件の裁判で、奥井誠一は裁判所側の証人として「砒素中毒とはどういうものか」証言している。

その後、何の因果か、彼の弟と結婚した私は、義兄となった奥井誠一からさまざまな砒素中毒の話を聞くことができた。「奥の細道」の殺生石から発生した砒素への興味は、いつの間にか「奥井の細道」に変わってしまった。「ソラみたことか」。奥の細道で、芭蕉の相棒だった曾良が、空で笑っている。(随筆家)

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