【コラム・先﨑千尋】わが家の田植えはいつものように5月の連休だ。田んぼは5反歩だから、田植えそのものは半日で終わる。それまでの準備で骨が折れる。わが家は、いわゆる中山間地まではいかないが、なだらかな丘陵地帯なので、田んぼは谷津田。イノシシが出没するので、その対策も怠れない。水は小川から引き込む天水頼り。雨が少ない年は水引きに苦労する。

土手の草を刈る。水漏れを防ぐために畦畔版(けいはんばん)を張る。トラクターが入らない角の所を万能(まんのう)で掘り起こす。水を入れるまでの作業が結構ある。そして種まき。育苗箱に土を入れ、タネを播(ま)き、ハウスで水をかけながら成長させる。

農協に頼めば1枚幾らでやってもらえるが、わが家ではいつものように、孫の手を借りながらタネをまき、苗を育てる。田植えをしたあとも水の管理や草取り、周りの草刈りなど、出来秋まで手が抜けない。

丹精(丹誠とも書く)という言葉がある。ものごとに心をこめるという意味だ。農作業は手作業が多いから、私たちのやることは丹精そのものだと思っている。散りゆく山桜や木々の芽吹きのもえぎ色を見ていると、老いの我が身でも、いのちが輝き、若さみなぎる想いがする。

国連「小農宣言」 日本は棄権

しかし、「山美しく、民貧し」。農業はグローバル化の波に呑まれ、米価は30年前の半値ほど。肥料、機械などの固定経費がかさみ、確定申告は毎年数十万円の赤字になる。江戸時代の年貢、戦前の小作料は収穫高の半分だった。労賃部分が残らないのだから、形、中身は違っても、私たちの暮らしは今だって戦前や江戸時代と変わらない。しみじみそう思う。

昨年12月に、国連は「小農と農村で働く人びとの権利に関する国連宣言」(小農宣言)を採択し、2019年から28年までを「家族農業の10年」と定めた。この宣言は、小農の価値や役割を再評価し、食の主権、種子、水の権利を守るべき、などとしている。わが国は、残念ながら、この宣言に対し棄権している。安倍首相は、小農は不要だと考えているようだ。

農業生産者のうち家族農業の世帯は、世界では70%、わが国では98%を占め、世界の食糧の80%を生産している。農業は私たちの命の源である食料を生産するだけでなく、自然景観を守り、地域社会を維持する役目を果たしている。また、担い手の農民は伝統文化の継承者でもある。

わが国の農政は、「国際化に対抗できる強い農業。輸出できる農業」をめざしているようだ。県内でも鹿行地域のように、儲かる農業をしている人や地域は確かにある。私はそれを否定はしない。しかし、だ。私が住んでいるこの地域の農地をわずか5~6人の農業者で担えるのか。もしそうなったら、私が住んでいるこの地域はソロバンが合わないから、真っ先に切り捨てられてしまうだろう。

国連の「小農宣言」と「家族農業の10年」が官邸農政を見直すきっかけになれば、と私は真面目に考えている。しかし、消費者である国民が、単純に「食べものは安いほうを選ぶ」と考えているうちは、事態は動かないと思えてならない。家族農業が支えている今の日本の農業に思いをはせてほしい。(元瓜連町長)

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