【コラム・浅井和幸】私が小学校のころ、ゲームウオッチという、名刺を少し大きくしたぐらいの薄いゲーム機が流行りました。休み時間もゲームをしていると、誰かが先生に見つかってしまい、ゲーム禁止令が出されます。

ほかにも、カブトムシ、お菓子、マンガを学校に持ってきてはいけないという禁止令も出されました。廊下は走ってはいけない、騒いではいけない、いろいろな「~してはいけない」という教えの中で育った人も多いかと思います。

それが当たり前になると、コミュニティや組織などで、禁止令のようなルールを作りたくなってしまうものです。それで上手く事が運べばよいのですが、上手くいかないことも出てきます。どうしてかというと、やってはいけないことは無限にあるからです。

例えば、「廊下を走ってはいけない」だけではなく、廊下を逆立ちして歩くことも禁止しなければいけないですから。

犬のしつけをするときに、部屋の中でかじってはいけないものを教えるには、何万点もの「いけない」を教える必要がありますが、それは至難の業なので、かじってよいオモチャなどを教えるという考え方があります。

先の廊下の話でいえば、走ってはいけないではなく、静かに歩くことがよいことであると教えることになります。いけない行動を禁止するよりも、よい行動を示すということです。

廊下は走らなければ、静かに歩くしかないだろうという予測は、あまりにも希望的な観測に過ぎません。その道を右に行ってはいけないと伝えれば、左に行くだろうと思っていたら、真っすぐ行ったり、引き返してくるかもしれないのです。

ルールを作った人がそれを守れない

ひきこもり問題は、無理やりにでも外に出せば解決するだろうと本気で考える人もいます。甘えさせず外に引きずり出せば、働くはずだという考えです。しかし、働くとは別の選択、自殺や犯罪、ホームレスという選択をするかもしれないのです。

また、ルールを作った自分自身が、そのルールを守れないということはよく起こることです。ルールというのは、強い人間が弱い人間を都合のよいように操りたいので作られることが多く、ルールを作る強い人間が自分を律する考えは抜けているからです。

子どもに「嘘はついちゃいけない」と言っておきながら、大人が嘘をついている。「静かにしなさい」と怒鳴るなどの例は、だれでも経験していることでしょう。自分が待たされるのが嫌で、「時間を守らなければいけません」とルールを作った人は、自分が約束の時間に遅れても待たされたことにならないので、むしろ時間にルーズであることすらあります。

自分で作ったルールを自分が守れなくても、相手より自分の方が強いので、ただちに問題になることは少ないです。「お前のように暇じゃないんだ」と暴言を吐けば、力で押さえつけて事を収めることが出来ます。

しかし、それは短期的に問題にならないだけで、長期的には大きく信用を失っていることかもしれないので注意しましょう。(精神保健福祉士)

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