【コラム・堀越智也】30歳を過ぎたころだろうか。詰め込み教育により脳の奥深くに眠っていた知識のいくつかが、化学反応を起こしたという実感を持つことがある。僕は、詰め込み教育とか偏差値教育と揶揄(やゆ)された教育の全盛のころに、中学生、高校生だった。実は、32歳の時に大学受験をしたので、最近も大して変わっていないとも思ってはいるが、それでも僕らは文章を書いたり、プレゼンをしたり、実習をしたりする機会はほとんどないままに詰め込んだ。

詰め込み教育の象徴のように言われるのが、歴史年号の暗記。しかし、年号を暗記していてよかったと思うことが、年を取れば取るほど多くなる。過去との距離感を測ることができるのだ。

今年は元号が変わる年として、歴史を感じる日本人が多いと思われる。一方、西暦で見ると2019年。100年前の1919年に何があったかというと、「みんな行く行くベルサイユ」で覚えた人も多いであろうベルサイユ条約が締結され、ドイツでは世界で初めて憲法で社会権が保障された年でもある。

暗記した年号で過去との距離感を測る

社会権は、人間が人間らしい生活を営むために国民が国家に対して保障を求める権利などと言われ、資本主義経済により生じる貧富の差が問題となったことから主張されるようになった権利である。

僕らは税金を払って国民として存在している以上、国に保障を求めることは当然であったとしても、この社会権、世界で初めて憲法で保障されてからまだ100年しか経っていない。そのちょっと前は、先進国でも王様が国を支配していて、自由すら危うかったのだ。だから、社会権が保障されているからといって、国を頼りにしたり、保障が薄い国を批難して生きていても危ういだけではないかとシンプルに思える。

年号を詰め込まないという選択肢がないかのように年号を暗記したことで、過去との距離感を測ることができ、さらには、当たり前のようにあると思っていたものの危うさにも気づけたりする。試験直前で必死に詰め込んでいる受験生に、試験の合否に関係なく、その努力は無駄にならないと教えてあげたい。(弁護士)

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