《霞ケ浦 折々の眺望》2 霞ケ浦流域は少雨地方


【コラム・沼澤篤】霞ケ浦流域に住む県民は少雨地方に住んでいることに無頓着だ。近年の気象統計を見ると、土浦では年間平均降雨量が約1200㍉で、日本列島の平均1800㍉よりかなり少ない。瀬戸内式気候の岡山県と同程度である。国内では、日本海側の豪雪地帯、熊野、高知、屋久島などで降水量が多い。これらの地方では3000㍉を超える年もある。

霞ケ浦地方で降雨量が多い時期は、梅雨、秋雨、雨台風の来襲であるが、年間を通してみると雨が少ない。この少雨は今に始まったわけではなく、奈良時代の常陸国風土記では、当地は暮らしやすい常世国(とこよのくに)ではないかと都から赴任した役人が記した一方、行方地方では谷津田の水源確保に苦労した伝説も伝えている。同地方では現在も約50カ所のため池がある。

なぜ当地は雨が少ないのか。一つは列島の東端に位置しているからだ。偏西風の影響で天気は西から変わるが、インド洋起源のモンスーンの湿潤大気が日本列島に達すると、西日本の山地に衝突して上昇気流となり冷却されて雨を降らす。その大気が茨城県に達するころには、湿度が低下して降雨になりにくい。

二つ目は、茨城県は平野が多く山岳が少ないために上昇気流が発生しにくい。三つ目は、冬期に日本海の湿った空気を運ぶシベリア寒気団は、列島の脊梁(せきりょう)山脈で上昇気流となり冷却されて日本海側に豪雪をもたらすが、太平洋側に達する時には、空っ風となり、雨や雪が降りにくい。

少雨は冬期に顕著で、長期間雨が降らず、流入河川の流量が減少し、霞ケ浦の水位が低下する。常陸川水門が建設される以前は海水逆流が生じやすく、塩害が発生したゆえんである。

霞ケ浦用水で県西は野菜の産地に

江戸期、少雨ゆえに、霞ケ浦に注ぐ桜川上流の青木村(大和村を経て現在は桜川市)の農地が荒廃し、村の人口が激減したことがあった。名主は村の復活をめざし、当時すでに高名な二宮尊徳を招き、指導を仰いだ。

尊徳は桜川に頑丈な取水堰(ぜき)を設置することを提案し、村人とともに率先して日の出前から日没まで普請(ふしん)に取り組み、ついに青木堰を完成させた。桜川の水が田畑に引かれ、青木村は甦(よみがえ)った。この事績は尊徳仕法と呼ばれて感謝され、後世に語り継がれ、大和村史に記録された。

この事績の通り、かつて県西地方は農業用水の確保に難渋し、長塚節が名作「土」に表現したように貧農が多かった。旧大和村の古刹(こさつ)楽法寺は雨引山という山号で呼ばれ、雨乞い祈祷(きとう)が行われた。雨乞い祈祷は石岡市龍神山、笠間市愛宕山でも行われた。

今、霞ケ浦用水(県西用水)事業により、巨大送水路で霞ケ浦の水が農業用水として供給され、稲作だけでなく、ハクサイ、レタス、キャベツなどの野菜の産地となり、農家の収入安定に貢献している。小雨地方に位置する霞ケ浦の役割の大きさと存在意義を、地政学的に再認識したい。(霞ヶ浦市民協会研究顧問)