【コラム・山口絹記】私は数年前、脳出血による失語と右手の失行を発症して緊急入院し、開頭手術を受けた。手術は成功し、幸い日常生活に差し障るような後遺症は残らなかったのだが、術後間もないころは言語機能にかなりの違和感があった。これは、そんなある日のおはなしだ。

退院前日の昼下がり、私はコートをはおり、帽子をかぶって病院を抜け出した。まだ自分の身体が、どこか自分のものではないような感覚が残っている。私は一歩一歩、転ばないように病院近くの公園を歩いた。

地面に靴底が沈む感覚。頬にあたる風。救急車のサイレンや子どもたちの笑い声。冬という季節独特のさめざめとした空気に、土と枯れ葉や排気ガス、近くの焼き芋屋や池の水の匂いが入り混じり、目を閉じていても、その情報量に圧倒されそうになる。

水辺に立って目を開けると、視界の隅で何かがきらりと光った。私はあの光るものを知っている。しかし、とっさに日本語が出てこない。独り言が意図せず第2言語に切り替わる。

「… structural color, Morpho … No, No, … kingfisher」そうだ、あれはkingfisher(カワセミ)だ。羽の構造色で光を反射しながら、カワセミが音もなく水に飛び込み、小魚をくわえて飛び去った。

ことばが推力を持つとしたら

「Excellent(お見事)」。私は声に出さずにつぶやいた。しかし、何ということだろう。カワセミの見事な飛翔に対し、私ときたら「カワセミ」という単語一つ思い出すのに第2言語で遠回りな思考をしている始末だ。

私がもしも鳥で、私にとっての言語能力が鳥にとっての飛行能力だったとしたら、私はきっと長くは生存できないだろう。鳥は飛ぶということについて考えることがあるのだろうか。魚は泳ぐということについて思い悩むことがあるのだろうか。

きっと鳥や魚が力学を意識せず、飛んだり泳いだりしているのと同じように、普段、私たちは意識せずにことばを使っている。そもそも、最も研究されている英語ですら、その文法は完全に解明されていない。

私はいわば、飛ぶということについて考えている鳥のようなもので、そう考えると、ずいぶんと悠長な生物である。

渡り鳥の中には、一度も地に降り立つことなく、1万㌔以上飛び続ける鳥がいるらしい。グリーンランドと南極間を往復する渡り鳥もいるというから驚きだ。もちろん、その途中で命を落とすこともある。何もそこまでしなくても、もっと楽に生きる道もあるだろうに―などと思うのは人間の考え方で、きっと鳥たちには鳥たちの都合があるのだろう。

私だって、私のことばがもしも推力を持つとしたら、きっと月まで行って帰ってくることくらい、わけない気がする。他人のこと、いや、他鳥のことはあれこれと言えない。

機会があったらぜひ、飛ぶことについて、ことばについて、鳥たちとおはなししてみたいものだ。「まぁ、お互い、いろいろとあるよね」などと言いつつ、日がな1日ひなたぼっこすることになるような気もするのだが。(言語研究者)