《沃野一望》1 脱藩の吉田松陰、常陸国へ

つくば道

広田文世さん

【ノベル・広田文世

灯火(ともしび)のもとに夜な夜な来たれ鬼

我(わが)ひめ歌の限りきかせむ  とて。

江戸時代の末期、嘉永4(1851)年朧(おぼろ)月=12月=、ひとりの若い武士が、前夜宿泊の松戸の寺を出立し北へ向かい、利根川手前へ差し掛かっていた。利根川渡しは、江戸と水戸を結ぶ水戸街道の要衝。渡れば本陣を構える取手宿。若い武士は、渡し場で待ち伏せる追っ手を警戒し、利根川を渡らずに上流へ迂回(うかい)した。

武士の名は、吉田大次郎、松陰と号するは後のこと。才気煥発(かんぱつ)の22歳。水戸藩の尊攘の師との面談を求め、江戸長州藩邸を出立し2日目のこと。

この出立、安寧(あんねい)なものではなかった。藩から東北遊行の許可を得ていたが、手続き上の齟齬(そご)があり、過所手形の発行が遅れた。友人の宮部鼎蔵(ていぞう)・安芸五蔵のふたりと水戸で落ち合うため、かねてより出立の日を12月14日、赤穂義士討ち入りの日と盟約していた。その日が、迫ってきてしまった。大次郎は、過所手形なしに藩邸を後にする。これは、脱藩行為にあたる。

江戸時代、藩士の脱藩は、藩(藩主)に対する最大の背信。本人はもとより、罪は一族へ及ぶ。時代劇で安直に扱われるような軽々しいものではない。

利根川を渡れば 筑波山が面前に

にもかかわらず松陰は、己の脱藩の正当性を信じ藩邸を後にした。後日、この旅行を記した「東北遊日記」の冒頭で、今回の脱藩の大義を陳述している。

「ここに於て遅疑(ちぎ)せば、人必ず曰(いわ)ん、長州人は優柔不断なりと。是れ国家(ここでは長州藩)を辱むるなり。亡命は国家に負(そむ)くが如しと雖(いえど)も、而(しか)も其の罪は一身に止まる。之れを国家を辱むるに比すれば、得失如何(いかん)ぞや」

長州藩(人)が、約束を破る集団だと非難される辱めに較べれば、1人の藩士の脱藩の罪は、其の藩士の身の上に止まる、藩の辱めと個人の罪と、どちらが重要なのだと、過激に主張した。理詰め松陰の脱藩論。

それでも脱藩は脱藩。出立2日目、大次郎は、藩からの追っ手を一応警戒した。脱藩逃避行2日目の行程経路は、前述の本人の日記から。

「右に手賀沼を視る。直行せば則ち安彦(あびこ)諸駅を経、土浦を過ぎて水戸に至るべし。余は水海道を過ぎんと欲す、故に左折して小路に入り花井村を経て船戸に出づ。舟もて刀根川(とねがわ)を済れば、筑波山、面前に当る」

利根川を渡り常陸国へ入った。筑波山の鋭鋒が前方に聳(そそり)立つ。大次郎、途端に登りたくなる。友との盟約を優先させた脱藩行が、好奇心を充たす旅へ転化してゆく。冬の残照に浮きでる筑波山を、眼を輝かせて仰視する。

松陰は明日を期し、常陸国1日目の宿を水海道とした。(作家)

【ひろた・ふみよ】土浦一高、山梨大学工学部卒。1984年、株式会社トータルシステムデザインを設立、社長に就任。2017年から会長。旧常陽新聞に茨城紹介紀行『いばらき・里・山・みち』を掲載。小説集『桜田門外雪解せず』で「茨城文学賞」受賞。小説『縁故節現世考』で「やまなし文学賞」受賞。小説集『天狗壊滅』で「日本自費出版文化賞」特別賞受賞。72歳、土浦市在住。