【コラム・奥井登美子】兄が特別大事にしている写真があった。木の橋の上で小学生の兄が笑っている。「この小さな橋は何なの?」「荻窪の家の近くに小川があって、そこでよく遊んだ」「そのころの荻窪は、野原や小川なんかがあったのね」「お隣に、ノラクロのマンガを画く田河水泡が引っ越して来たんだよ」「ノラクロおじさんがお隣に…それはラッキー」

「そのころ、ノラクロの人気はすごかったよ。ノラクロキャラメル、遊園地に行けばノラクロブランコ。ノラクロブームだったんだ。僕も、お隣なのでうんと遊んでもらおうと期待していたのに、今度は僕の家が引っ越しちゃって。それからは、原っぱで野球ばかりやってたなあ」「せっかくノラクロおじさんが隣に来たのに、何で引っ越したの?」「さあ、わからない、親父に聞いてくれ」

いつだったか、父に、ノラクロおじさんのお隣から引っ越したいきさつを聞いたことがある。田園地帯だったそのころ、阿佐ケ谷、荻窪などは、関東大震災で焼け出された人たちの新しい住宅地。子育てに環境のいい家が、たくさん建てられたという。

わが家も、新富町の家が焼けて荻窪に引っ越した。子煩悩な父は、学生時代に子供たちを集めて、今でいう「子供文庫」のようなものをやっていた。子供が欲しかったけれど、母の心身の具合が良くなかったらしい。10年目に私が生まれたときは、とてもうれしかったという。

小児科医の近くに引っ越したわけ

でも、身体が弱かった。1才のときに法定伝染病のジフテリアにかかって入院し、なんとか一命を取り止めた。治ってほっとしたのもつかの間、喉が弱くて、すぐ熱を出す。

父は心配で、心配で、10年目にやっと生まれたこの子を、熱なんかで死なしてなるものかと決心して、入院時にお世話になった小児科の勤務医・飯島先生が同じ荻窪に住んでいらっしゃることを知って、とうとう先生の家の1軒置いてお隣に引っ越してしまった。

そのころの荻窪は、探せば手ごろな家が方々にあったらしい。3~4歳のころだろうか、よく夜中に熱を出す。私は父に抱かれて、飯島先生とタクシーで淀橋病院へ行ったのをおぼろげながら覚えている。わが家の引っ越しの謎は、私の熱だった。(随筆家)