【コラム・山口絹記】年賀状じまい、ということばを聞くようになった。

年賀状をやめる人が増えている、ということらしい。一つの社会における文化というものは、その外や後の世から見れば不合理で無意味に感じるものだ。それでも、一度広まった文化は外的要因なしに簡単に廃れるものではない。たとえ不合理なものにも、その背後には、その時代と空間に生きる人間の思考のモード(様式や方法)が存在しているからだ。

一つの文化を続けるか否かという議論が起こる背後には、我々の思考のモードに何かしらの変化が起きている可能性がある。その変化が、年賀状じまいということばとなって顔を出しているのではないだろうか。

などと偉そうなことを論じている私はといえば、「雑煮でも食べながら届いた年賀状に返事を書けばよいかな」などといい加減なことを考えつつ、2018年の12月25日現在、この記事を書いている。無事に新年を迎えていれば、年賀はがきは焦ってコンビニに買いに行くことになっているだろう。

私のいい加減さについてここで弁明しても仕方がないので、いい加減ついでにいい加減なものについて、ことばの観点から書いてみたいと思う。

異文化交流を包容するためのもの?

そう、「雑煮」について、である。

名は体を表すというが、この雑煮という名前、ほとんど何も説明していない。雑草という名の草はない、ということばを聞いて感心したことがあるが、雑煮という名の料理は存在してしまっている。雑を煮たもの。何かを煮た液体というくらいしか共通点が見いだせないところに、形容しがたいすご味がある。

例えば結婚した夫婦が初めて正月を迎えたとして、全く異なる2つの雑煮が相まみえたとする。何も考えずに2つの雑煮を混ぜてしまえばよいのだろうか。どちらかを選ぶのか。いずれにせよ、結果として作られたその液体もまた雑煮に違いない。

世の中に、異なる食文化に口を出すことほど危険な行為はなかなかない。もしかすると、雑煮という名は、こういった家同士の異文化交流を包容するためのものではないだろうか。考えすぎ、だろうか。

私は雑煮の専門家ではないが、元祖雑煮、本場の雑煮、雑煮の町、ということばは目にしたことがないし、出汁(だし)で出汁を洗うような大規模な雑煮争いが起こったという話も聞いたことがない。雑煮ではない雑煮を作るのも、今のところ人類の想像力では難しいと言わざるを得ないし、雑煮という文字通り雑な名の前には、振りかざせる正当性や派閥すら存在し得ないのだろう。

雑煮と雑煮でないものの境界はどこにあるのか。これは、空と宇宙の境はどこにあるか、という問いに近いものを感じる。もしかすると、雑煮は料理というよりも平和や病気といった概念に近い存在なのかもしれない。

たとえ年賀状がなくなっても、初詣やお節料理がなくなる日が来たとしても、雑煮だけはしぶとく生き残っていくのではないだろうか。是非とも生き残って欲しいな、と私は思っている。(言語研究者)