【コラム・奥井登美子】この間、久しぶりに中学時代からの同級生にお会いして、市川の菅野の家に遊びに行った時のことを想い出してしまった。当時、市川は松並木もたくさん残っていて、空襲で焼けただれた東京から近いのに、緑豊かな、ゆったりとした町であった。その友達の家も、生け垣ごしに、隣の家が丸見えだった。

「お隣のおじさんが、庭でまな板と人参を出して、何かやっているわよ」「そうよ、必ずこの時間、おじさんはご飯に人参をいれて炊くの」「おじさんの手つき、器用で、まるでまかないの職人さんのよう」「職人さんじゃないわよ、あの人はカフウとかいう作家さん」「えっ、荷風ですって、ホント」「そうよ、そう」「本物の、永井荷風なの?」「ご飯を食べると、着替えて、出掛けるわよ」

私は生け垣にしがみついたまま、動けなくなってしまっていた。そういえば、人参を刻む動作、おコメを研ぐ手つきも、一挙手一投足に無駄がなくて、何となく風格がにじみ出ている。私は、お洒落(しゃれ)をした永井荷風の外出姿を見届けたい一心で、夕方まで、友達の家でお隣のおじさんを見張っていた。

お洒落して背を伸ばしお出掛け

敗戦の1年前、私たちの家族は東京から信州伊那の山奥に疎開した。大学生の兄貴は本が好きで、大事な本を全部、疎開先に送ってきた。小学1年生の弟の加藤尚武は、枕元に積んであった兄貴の本を片端から読んで、なにやら暗記してしまった。子どもだから内容は皆目わからないが、日本語のリズムが好きで、永井荷風の作品が気に入ってしまったようだ。

母は、弟の担任の先生から「戦争中なのに、子供に永井荷風を読ませる母親がどこにいるか」と、こっぴどく叱られてしまったという。それでなくても、農作業も山仕事も何ひとつ出来ない、東京からやってきた疎開者はイジメの対象にされる。母はそのことがきっかけで、ノイローゼのようになってしまった。

私は、荷風の文学はよく分からないながらも、弟が先生に叱られて読むことを禁じられたという作家さんはどんな人か、興味があったのである。その日も、荷風はお洒落をして、背をピンと伸ばし、どこかへ出掛けて行った。(随筆家)