つくば市 山城啓子さん(86)
つくば市に住む山城啓子さん(86)は6歳の時、疎開先の福井市で空襲に遭い、母親に手を引かれて逃げた。翌日自宅に戻ると、福井の街は焼け野原になっていた。市街地の84.8%が損壊した福井大空襲だ。1945年7月19日深夜、米爆撃機B-29が127機飛来し、81分間に865トンの焼夷弾を福井の市街地に落とした。2万戸以上が焼失し、9万人以上が罹災し、1900人を超える死者が出た。
啓子さんは東京都文京区湯島で生まれた。父親は沈没船などの引き揚げを行うサルベージ会社に勤務していた。兵庫県西宮市に転勤となり、両親と三つ下の妹の4人で、東京から西宮の社宅に転居した。やがて父親に赤紙(召集令状)がきて、海軍の警備府が置かれていた青森県大湊に水兵として配属された。
1944年、母親と妹の3人で兵庫から青森まで父親の面会に行った。面会室で待っていると向こうから、まるで行進しているかのように両手を大きく振って歩いてくる一人の水兵が見えた。父親だった。何を話したかは覚えていないが、普通の歩き方ではなかった父親の姿だけは今も覚えている。
父親が召集された後、3女となる妹が生まれたが、赤ん坊の時、高熱を出し肺炎で亡くなった。西宮の社宅は母親と娘2人の女ばかりだったので、母親は自身の実家のある福井県に疎開することを決めた。実家近くの福井市内に家を借り、母親と妹の3人で1年ほど暮らした。1945年4月、啓子さんは福井市で小学校に入学した。先生からは、学校の行き帰りに空襲警報のサイレンが鳴ったら、近くの家に駆け込むよう言われた。
こんなに広かったのか
福井大空襲があった7月19日夜は、夕食を食べ終え、買ったばかりのラジオを自宅で聞いていた。突然サイレンが鳴り響き。次第に外が騒がしくなった。当時29歳だった母親は落ち着いて身支度を始め、亡くなった3女の位牌を懐に入れ、まだご飯が残っていたお釜を風呂敷に包んで、3歳の妹をおぶった。啓子さんはモンペ姿で肩に水筒を掛け、防空頭巾をかぶった。ラジオを抱えて持っていこうとしたが、母親から「そんなものいいから」と止められた。母親はお釜を持ったもう片方の手で啓子さんの手を引っ張って逃げた。
外は米軍が落とした照明弾で昼間より明るかった。人々は皆、郊外へ郊外へと一方向に向かって走っていた。母親に手を引かれた啓子さんも郊外へと逃げた。途中、焼夷弾が落ちて燃えている炎を、消そうとしている男性の姿があった。
どこまで逃げたか分からないが、郊外まで来て、啓子さんはそのまま眠ってしまった。翌日、明るくなって目を覚ますと、畑のようなところに大勢の人がいた。しばらくするとB-29が上空を飛行し、また爆弾を落としに来たのではないかと怖くなったが、周りの大人に「爆弾を落としに来たのではなく、偵察に来ただけだよ」と言われた。
お釜に残っていたご飯を食べ、自宅に戻った。途中、焼け跡のあちこちから煙が出ていて、焼けた家の前で立ち尽くす人の姿があった。悲しいとか、そういう感情は無く、焼け野原になった福井の街を「こんなに広かったのかと思った」と啓子さんは当時を振り返る。視線を遮る建物は無く、立っているのは人の姿しかなかった。背負われて母親の背中から焼け野原を見ていた妹は当時のことを「焼け焦げた人を大勢見た」と話すが、啓子さんにその記憶は残っていない。
住んでいたところに到着すると、家は全焼だった。買ったばかりのラジオも焼けてしまった。
その日のうちに母親が実家方面に向かうトラックを見つけてきて、大勢の人とトラックの荷台に乗り、母親の実家に行った。1時間ほどで実家に到着し、そのまま終戦の日を迎えた。
8月15日を過ぎて間もなく、復員した父親が軍服姿で家族を迎えに来た。2、3日福井で過ごした後、父親の実家がある東京に家族4人で向かった。湯島にあった実家は東京大空襲で焼けてしまったから、父親の両親は世田谷区に移っていた。戦後は、戦争中よりも食べ物に苦労した思い出がある。
成人し国家公務員の夫と結婚。40歳の時つくば市に転居した。戦後80年経ち「戦争は人間にとっていいことは一つもない。戦争はどんなにつらいことか。人間は人間を大事にしないといけない。とにかく戦争を起こしてはならない」と、次の世代に伝えたいと話す。(鈴木宏子)