【コラム・平野国美】今回は私が看た患者さんの話です。優秀な元物理学研究者でしたが、人付き合いが極度に苦手でした。引退後は引きこもるようになり、妻の作る食事にほとんど手を付けず、風呂を嫌がり、髪やひげも伸び放題でした。認知症を疑った妻は、認知症外来に連れて行きましたが、検査で簡単な引き算問題が出たところで診察室を飛び出し、外出を拒否するようになったというのです。
引きこもる部屋をのぞくと、椅子に座って寝ていた彼が「かっ」と目を開いて一心不乱に数式を書き始めたのです。その姿は不気味でしたが、どこか神々しくもありました。本人とはなかなか話せず、妻からこれまでのことを聞き出すと、若いころから奇行があったそうです。部屋にこもって数式を解いていて、食事を受け付けないこともたびたびあったそうです。
この日は、部屋にあったノートやメモ書きを少しもらって帰りました。この方は認知症なのだろうか? 紙に書かれた数式は落書きなのか? 何かを意味するものなのか? 高校の数学が赤点だった私にはまったくわかりません。
ところが、パソコンを使って、今はやりの人工知能に、ノートに書かれた数式を読み込ませると、「ロジスティック成長モデル」「ロンドン」「マクスウェル方程式」といったキーワードが出てきます。数式が合っているのか間違っているのか分かりませんが、何か意味のあるものが書かれていることは間違いなさそうです。
ある日の昼過ぎに診療に出向くと、やはり何かを解こうとしています。私と目さえ合わそうとしないので、その日のラスト診察に順番を変更して、夕方に再度出向くと、まだ計算をしておられました。1時間後、鉛筆を置いたところで、「解答は出ましたか?」と話し掛けました。
すると「解答は初めから分かっている。問題は、この数式が何を表現しているか? 美しいか? 醜いものか? そこなんだよ」と、神々しい答えです。「先生は頭が衰えているわけではないですね?」と話しかけると、「いや、大分衰えてきたよ。昔は紙と鉛筆を持たずに頭の中だけで完結できたからね」。おそらくこれが真実なのでしょう。
幼いころから難聴があり、ご両親は心配されたようです。しかし、独特の感性を認められて研究所に入ったようです。奥様の話では結婚し一緒に生活して、あまりに社会性や常識がないので驚いたそうです。金銭欲も出世欲もなかったそうです。
この方を認知症と呼ぶわけにはいかないと思います。この方とお会いしたあと、分野は違いますが同じタイプの方とお会いしました。そして私は、Gifted(ギフテッド、天賦の才)という言葉にたどり着きました。(訪問診療医師)