【コラム・川端舞】前回コラム(7月19日掲載)で、「私は今、怒っている」と書いたが、同時に、自分の具体的な傷付きを公に書けない悔しさがある。この悔しさを代弁してくれる本はないかと探していた最中、「オリンピックという名の虚構―政治・教育・ジェンダーの視点から」(晃洋書房)に出合った。
カナダでスポーツを研究しているヘレン・ジェファーソン・レンスキーが、オリンピックが社会にもたらす負の影響を詳細に分析した著書だ。レンスキーによると、オリンピック開催都市では、競技場や選手村の建設のために、先住民族や低所得の住民の強制退去や、作業員の過重労働が頻繁に起こるという。
オリンピックのためにそのような人権侵害が起きているとは、無知な私はにわかには信じられなかった。しかし、改めて調べると、東京2020大会でも、国立競技場の建て替えのため、多くの高齢者が入居していた都営アパートが取り壊され、住民が立ち退きを強いられた。
また、選手村や国立競技場の建設現場で働いていた作業員が、クレーンに挟まれ事故死したり、過労自殺していた。国際的な労働組合である「国際建設林業労働組合連盟」は、各建設現場での労働環境を調査し、スケジュールの遅れや労働力不足により、労働者の安全が脅かされていることを指摘する報告書を2019年に公表した。
問題意識を持って調べれば、インターネットで東京2020大会に関連する人権侵害の記事を簡単に見つけられる。それなのに、私は当時、何も知らずに、ただオリンピックを楽しみにしていた。
声が暗闇に消える虚しさ
もちろん、知らなかったのだから仕方ないと言い訳することもできるが、では日本中がオリンピック歓迎ムードに沸いていた当時に、この事実を知ったとして、オリンピックのために慣れ親しんだ住居や命すらも奪われた人たちがいることを、私はどのくらいの熱量で受け止められただろうか。オリンピックという熱に浮かされたまま、彼らの声を聞こうともしなかったかもしれない。
オリンピックの裏で起きた人権侵害を公に告発した人たちは、勇気を振り絞って声をあげたに違いない。訴えられた側が社会的な影響力を持っているほど、周囲の人々が被害者の声に耳を傾けるのは難しい。被害者の声を聞くことで、それまで自分の信じてきたものがもろく崩れてしまうかもしれない。それは、ものすごく怖い。
でも、振り絞ってあげた声が誰にも届かず、暗闇に消える虚しさを私は知ってしまったから、私に向かって叫んでくれた声は、きちんと受けとめる勇気を持っていたい。(障害当事者)