【ノベル・伊東葎花】
本当に几帳面(きちょうめん)な人でした。
帰る前には必ず電話をくれました。「今から帰る」という電話です。
30年以上前のことですから携帯電話などありません。きっと同僚たちに冷やかされながら会社の電話を使っていたのでしょう。
会社から家までは1時間ほどです。
夫が帰宅したらすぐに夕飯になるように、逆算して料理を作りました。
子供たちはまだ小学生で、それは賑(にぎ)やかな食卓でした。
月日が流れ、子供たちは大人になり家を出ました。
夫は…いません。
ある日突然、失踪(しっそう)してしまったのです。
残業の時も必ず電話をくれたのに、その日電話は鳴りませんでした。
8時を過ぎて会社に電話をすると「とっくに帰りました」と言われました。
その日から、夫は行方不明になったのです。
数日後、知らない町から手紙が届きました。
『他の人生を歩んでみたい。捜さないでくれ』
たった1行の手紙です。わけがわかりませんでした。
泣いてばかりもいられないので必死に働きました。
そして夫の帰りを待ちました。
家の電話が鳴るたびに期待し、そして失望しました。
長い年月が過ぎ、そんな暮らしにすっかり慣れていたのです。
*
その電話が鳴ったのは、午後6時ちょうどでした。
「もしもし…、僕だけど、今から帰るよ」
耳を疑いました。紛れもなく、夫の声でした。
「あなた…今、どこにいるの」
「会社に決まってるだろう。今から帰るよ」
頭が混乱しました。混乱しながらも、私はキッチンに立ちました。
気づけば、震える手で夕飯の支度をしていました。
午後7時に夫が帰ってきました。
ずいぶん年を取っていましたが、まるで昔と変わらず、靴をきちんと揃(そろ)えて「ただいま」と言いました。
こんなとき、普通はどうするのでしょう。
「やっと帰って来てくれた」と胸にすがって泣くでしょうか。
それとも頬を叩(たた)いて追い返すでしょうか。
私は、どちらもしませんでした。
黙って料理を並べました。夫はそれをゆっくり食べて、昔と同じように「おいしい」と笑いました。
夫が遺体で発見されたと連絡が来たのは、その直後のことでした。
震える手で受話器を握りながら振り向くと、そこに夫はいませんでした。
少し冷えた料理が残っているだけでした。
「ずっとホームレス生活をしていたようです。公園で倒れているところを発見されました」
遠く離れた町の警察官が、気の毒そうな顔で話してくれました。
「バカな人」 私は、吐き捨てるように言いました。
夫が、私と子供たちを捨ててまで求めたものは何だったのでしょう。
それで彼が幸せだったのか、今となってはわかりません。
ただひとつわかるのは、「帰るコール」の電話は、二度と鳴らないということです。
もう待たなくていいと思ったら、体中の力が抜けました。(作家)