火曜日, 4月 21, 2026
ホームつくば【亥年折り返し】㊦ 昨季イノシシ500頭を捕獲 つくば市、国道125号をめぐる攻防

【亥年折り返し】㊦ 昨季イノシシ500頭を捕獲 つくば市、国道125号をめぐる攻防

【相澤冬樹】つくば市では2018年1月、沼田のつくばりんりんロードで、地元住民がイノシシに襲われケガをする事件があり、4月には金田のさくら運動公園、桜中学校付近で目撃情報がもたらされ、緊張が走った。ここまでくると、学園地区とは目と鼻の距離である。

同市が、イノシシを対象とする鳥獣害被害防止計画を作成したのは2017年度。担当は農業政策課だが、猟友会などと連携した捕獲対策は環境保全課が所管する。19年度までの3カ年、毎年160頭から210頭の捕獲を計画していた。

18年前半の事故と目撃情報から、筑波山ろくの地区長を中心に駆除の要望が高まった。イノシシは11月から翌年3月までが猟期で、銃器とワナによる捕獲体制が強化された。市内には猟友会支部が3地区にあり、協力を呼びかける一方、市も山林上空にドローンを飛ばすなどして生息分布を探り、ワナの適正配置に役立つよう情報を流した。

結果、18年度の捕獲頭数は一気に500頭、計画頭数の倍以上に達した。市環境保全課は「地元にお願いした自助努力の成果が表れた」と胸を張った。筑波山ろくに並行して小田、北条を走る国道125号を越えての目撃情報もぱたり途絶えており、筑波山域への封じ込めには成功しているとみている。地元からも「被害も減っているようだ」(六所地区)と好感されている。

しかし、同課は「手放しでは喜べない」としている。農研機構のイノシシ研究者、仲谷淳さんが指摘していた「捕獲数が多い地域ほど被害も多くなる」状況の可能性を否定できないからだ。500頭もの捕獲がこの先の状況をどう変化させていくか、動向を見守りつづける必要がある。20年度からの鳥獣害被害防止計画の作成に向け、被害情報の収集、狩猟免許取得者の拡大などに取り組んでいる。

仲谷さんによると、イノシシは元来平地を好む生き物なので、山に追い込み、正面から防御すると脇から遠回りに漏れ出す生態がある。筑波山ろくの防御線は土浦市に入ると、旧新治村を通る県道つくば千代田線に変わる。しかし旧土浦市の今泉地区あたりまで侵入跡がみられることから、平地への越境はすでに始まっているようにもみえる。さらに同市東部、市街化が進むおおつ野地区でも出没したとの情報がある。

耕作放棄地や放棄果樹園などを足場に、市街地へ侵入してくると市民生活への影響も懸念される。「市街地では発砲もできず、わなも仕掛けられない。交通事故や安全対策など被害は農地や農作物にとどまらなくなる」(仲谷さん)。

土浦市農林水産課では、「筑波山域には実際、どれほどの生息数がいるのか、実態を計れないところが悩み」という。同市の防止計画はかすみがうら市と共同で19年度に策定。イノシシについては18年度の被害額439万円を21年度に307万円まで減らす目標を立てた。捕獲数の目標は年間150頭。同課によれば、15年以降、直接的な予算は年間250万円ほどで、毎年100頭前後を捕獲してきた。生息実態がつかめないため、これらの計画数値が適正かの判定もできかねているのが実情のようだ。

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土浦の花火100年の紡ぎ(4)《見上げてごらん!》51

【コラム・小泉裕司】戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の統治下にあった1945年10月、火薬類の製造は全面禁止となった。再び製造・販売が許可されたのは、3年後の1948年8月1日である。同日、東京・両国では「川開き花火」が8年ぶりに再開された。のちにこの日は「花火の日」に制定されている。さらに同年9月22日には、戦後初の競技会とされる「第1回全国花火コンクール」が隅田川で開催された。 このコンクールの目的は、花火師同士が切磋琢磨(せっさたくま)し、色彩や造形美といった品質を極限まで高めることにあった。同時に、もう一つ重要な役割を担っていた。それは、花火の輸出振興を目的とした「プロモーションの場」である。海外バイヤーに対し、「日本の花火は世界一である」ことを示すショールームとしての機能を果たしていたのだ。 終戦からわずか3年。深刻な物資不足とインフレに直面していた当時の日本にとって、外貨獲得は至上命題であった。繊維製品や雑貨と並び、伝統技術の結晶である花火もまた、戦略的な輸出品として位置づけられていく。 茨城が誇る「輸出花火」の輝き こうした国策の流れは茨城にも波及する。1953年の「いはらき新聞」によれば、野手火工や茨城火工があった下妻地方では、特産の玩具花火が同地方の出荷額第3位を記録した。輸出先は南米にまで及び、まさに輸出産業の花形であった。 土浦火工もまた、輸出に心血を注いだ企業の一つである。海外の環境に対応するため、防水スプレーを塗布するなどの工夫を重ね、アメリカを中心に各国へ花火を送り出した。 こうした功績が評価され、1961年には「土浦の花火」大会の最高賞として通商産業大臣賞が授与された。さらに1962年から10年間、大会名称に「輸出振興」の冠が付されたことは、高度経済成長期という時代を象徴している。 進駐軍を魅了した「日本の花火」 一方で、土浦の花火には興味深い記録が残る。火薬製造が禁止されていたはずの1946年9月30日に、すでに「第14回大会」が開催されていたというのである。1948年の両国花火再開よりも、実に2年早い。 背景にあったのは進駐軍の存在だ。当時、米軍は独立記念日などにキャンプ地で花火を打ち上げており、国内の催事でも司令官の裁量で許可が下りる場合があった。1946年、水戸に置かれたGHQ茨城軍政部に着任したリンボー少佐は、故郷のナイアガラの滝を懐かしみ、花火の打ち上げを要望したという。 これを受けて県内の花火師が招集され、土浦観光協会の主催により、9年ぶりの大会が実現した。リンボー少佐ら幹部将校30人余りが、友末知事ら県幹部とともに観覧したと伝えられている。日本の花火に魅了されたGHQが花火師たちの訴えに耳を傾けたことが、1948年の製造解禁を後押ししたとも言われている。 歴史の転換点を経て しかし1970年代に入ると、転機が訪れる。人件費の高騰や円高、さらに安価な中国製花火の台頭により、花火の輸出は次第に縮小していった。 現在の「土浦全国花火競技大会」は、輸出振興よりも芸術文化の継承や観光振興の側面が強い。しかし、その根底には「日本の匠(たくみ)の技で世界を魅了し、国を豊かにする」という、戦後を駆け抜けた花火師たちの熱い志が、今も確かに息づいている。本日はこれにて、打ち留めー。(花火鑑賞士、元土浦市副市長) <参考文献>「下妻市史」(下妻市史編さん委員会、1995年刊)「日本の花火のあゆみ」(武藤輝彦、あずさ書店、2000年刊)「花火の事典」(新井充、東京堂出版、2016年刊)「花火と土浦」(土浦市、2018年)「花火師たちの記憶/DVD」(㈲茨城ビデオパック、2025年完成)