月曜日, 10月 19, 2026
ホームスポーツ常総は桐蔭、藤代は春日部共栄と対戦 秋季関東大会の組み合わせ決まる

常総は桐蔭、藤代は春日部共栄と対戦 秋季関東大会の組み合わせ決まる

【伊達康】来春のセンバツ甲子園出場権をかけた2018年度第71回秋季関東地区高等学校野球大会の組み合わせ抽選が11日行われ、茨城代表は県1位の常総学院(土浦市)が神奈川2位の桐蔭学園と、2位の藤代が埼玉1位の春日部共栄と対戦することが決まった。大会は20日から6日間かけて山梨県甲府市の小瀬スポーツ公園山日YBS球場で開催される。2勝して準決勝まで残ると来春のセンバツ甲子園への選出がほぼ確実となる。優勝チームは11月9日から行われる明治神宮大会に出場する。トーナメント表は山梨県高野連のウェブサイトへ。

強力打線の常総 3年ぶりの甲子園目指す

常総学院は秋季県大会で尻上がりに打線の調子を上げ決勝では15得点の大勝を果たした。強力打線を牽引したのが菊地壮太(2年)と菊田拡和(2年)だ。菊地は負担の大きな捕手を担いながらも上位打線に座って日替わりで異なる打順を経験。決勝では5打数5安打5打点と大暴れするなど、チームトップの大会通算打率.579をマークした。

菊田は打率.556、打点9、長打率は1.0を記録した。夏の決勝ではサードの守備で失点につながる失策をし、試合後は自責の念から号泣していた菊田。秋は地区予選から県大会3回戦にかけて3番レフトとして起用されていたが、ベンチの信頼と自信を取り戻して準々決勝からは4番サードに復帰した。

そのほかにセンター兼投手の中妻翔(2年)が広角に打ち分けることができるセンスの高い打者として上位打線で存在感を示す。クリーンヒットを打ったかと思えば俊足を生かしてセーフティーバントもでき、投手で出場していても疲労をいとわず出塁すれば果敢に盗塁を狙う。そのユーティリティープレイヤーぶりに首脳陣の信頼は極めて厚い。中山琉位(1年)は準々決勝の常磐大高戦で貴重な走者一掃スリーベースを放ち、打数は11と少ないながらも6安打、打率.546と結果を残して猛アピール。桐蔭学園戦では県大会での活躍さながらにチームに勢いを与えるプレーが期待される。

球威十分のエース岡田幹太(常総学院)

投手陣は岡田幹太(2年)と菊地竜雅(1年)の140㌔を超える右腕2枚に加え、左腕の中妻翔の3人が柱となる。エース番号を背負う岡田は最速143㌔をマークする速球が武器だが、大会を通してコントロールに不安が残る内容であった。3回戦の波崎柳川戦では8対1で迎えた7回に登板するも、連打を浴びて3点を返され調整登板に失敗。準決勝の水城戦では3イニングを無安打無失点で切り抜けたが3個の四球を出しコントロール面の不安を払拭できなかった。関東大会では圧倒的な球威を存分に生かして相手をねじ伏せてもらいたい。

菊地竜は2回戦の日立一戦で144㌔を記録し自己最速を更新した。準決勝では水城の4番・櫻井隼斗(2年)に2ランホームランを浴びたが、その後はスライダーとチェンジアップを織り交ぜ水城打線を危なげなく交わした。菊地竜の登板能力を考慮すれば、関東大会1回戦の先発起用は十分に考えられる。

チームトップの投球イニングを誇る中妻は15イニングを投げて失点はわずかに2と抜群の安定感を誇った。最速130㌔前半ながら巧みにコーナーを突いて打者を凡打に仕留める投球術に優れる。

藤代 16年ぶり4度目の関東大会出場

スピンの利いたストレートが武器の竹内航(藤代)

藤代は準決勝で最速147㌔の剛腕・岩本大地を擁する石岡一に延長13回タイブレークの末にサヨナラ勝ちで16年ぶりの秋季関東大会出場を決めた。決勝は連戦の疲れから投打がかみ合わずに大敗を喫したが、準決勝までの4試合でチーム防御率は0.90であったことを考慮するとエース中山航(2年)と小島拓也(2年)を中心とした守りのチームと言えよう。

中山は県大会準々決勝の霞ケ浦戦で3安打、1失点完投勝利した。スライダーを武器とし、低めを丁寧に突いた投球が持ち味だ。今大会は最速138㌔だがスピンの利いたボールに各打者は球速以上に差し込まれる。また夏の下妻一戦では143㌔の剛球でノーアウト満塁のピンチを救い話題となった。連投の疲労がない関東大会初戦ならば強打の春日部共栄といえどロースコアの展開に持ち込めるだろう。

2番手格の小島は準決勝の石岡一戦で5回途中から救援登板し、12奪三振の力投で逆転勝利を呼び込んだ。181㌢の長身から投げ下ろすボールには力があり、130㌔中盤のストレートと縦のスライダーを組み合わせた強気の投球が光る。

打線は1番を打つ田島涼馬(2年)が俊足で出塁率が高くチームトップの打率.546をマークした。常総学院との決勝で2度の内野安打をもぎ取った足に注目だ。3番を打つ青木倫太郎(2年)はセンター方向中心にはじき返して打率.333。二塁打を3本放っている。4番の藤井皓大(2年)は霞ケ浦戦でプロ注目右腕の福浦太陽から貴重な2点適時三塁打を放った。140㌔超えの好投手である福浦や岩本(石岡一)を打って勝ってきた藤代打線だが、決勝では関東大会を決めて安心したのか、その勢いはなりを潜め無得点に終わった。春日部共栄戦では霞ケ浦戦で見せた速球に振り負けないしぶとい打撃を発揮して欲しい。

攻撃の起点となる田島涼馬(藤代)

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土浦の花火100年の紡ぎ ⑽《見上げてごらん》57

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