木曜日, 4月 2, 2026
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金井宇宙飛行士が市役所訪問 つくば市の応援に感謝

【鈴木宏子】国際宇宙ステーション(ISS)の宇宙飛行士として昨年12月から5カ月半、宇宙に滞在し、今年6月帰還した宇宙航空研究開発機構(JAXA)の金井宣茂宇宙飛行士(41)が26日、つくば市役所を訪れた。打ち上げ時や帰還時につくば市の応援を受けたことに対し、五十嵐立青市長に感謝の意を伝えた。

金井さんはフライトエンジニアとして、ISSの維持管理や運用、宇宙環境を利用した科学実験などに取り組んだ。

宇宙滞在を振り返り「宇宙での生活は意外に快適で不自由なかった。宇宙食もおいしいし、肩凝りもないし、夜はハンモックに揺られるようにすやすや眠れた。普通の人が宇宙旅行しても生活するノウハウは蓄積されていると感じた」と話した。もの散らかっているのが嫌いな性格のため、他の宇宙飛行士が出しっぱなしにしているカメラなどを片付けるなど、片付け係だったというエピソードも披露した。

今年2月、アジアや日本の学生たちが筑波宇宙センターの運用管制ルームで生中継を見守る中、学生たちから提案があった8つの宇宙実験を行った際は「宇宙でも学生たちのパワーを感じた」と話した。

帰還後の6月、つくば市は、金井さんに送る「おかえりなさいメッセージ」を市民から募集し、市民の寄せ書きをつくば駅前の商業施設BiViつくばに展示した。筑波宇宙センターでリハビリ中だった金井さんは会場を訪れ、居合わせた市民から「お疲れ様でした」などと声を掛けてもらったことがうれしかったなどと語った。

29日は筑波宇宙センターで催される特別公開で子供たち向けの講演会を開く予定。さらに全国各地に出向いて帰還報告などをする計画という。「経験をいろいろな人にお話しすることで宇宙を身近に感じていただけば」という。

◆筑波宇宙センターの特別公開は29日(土)午前10時~午後4時。金井さんは「教えて!金井宇宙飛行士」と題して、午前11時30分~、午後1時~、3時~の計3回、子供たちと対話しながらの講演会を開く。入場無料、先着順。問い合わせは電話050-3362-6265(同広報部)

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「みんなと仲良く」を諦められない《土浦一高哲学部「放課後の哲学」》9

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何か事情があったのか?)があれば、人に失望しすぎることがなくなる一方で、善意に対してはただの善意以上に喜べるようになります。また、相手を「間違っている」側に追い込む必要がなくなれば、自分が正しいと信じる価値観も過信することもなくなります。結果として私達の見る世界はきっと善悪のこんがらがったよくわからないものに成り果てるでしょうが、それはきっと、楽しい時間をより多くの人間と分かち合える素敵なものでもあると思うのです。なぜなら、善悪や好悪の物差しの上では排除や拒絶の対象となる人々も、その物差しを外せば、ただ価値観が異なるだけの友人になり得るからです。 もちろん、このような忍耐も万能ではありません。それは一つの心構えであって、他者の人格それ自体に影響を及ぼすものではないからです。相手の無自覚な言動に傷つけられ続ける状況を甘んじて受け入れてまで、関係性を保つ必要はありません。むしろ、そういう時こそ、相手から距離を取ることが一つの選択肢となります。人は環境が変わったり、時間が経ったりすれば、自然と考え方や価値観も変化していきます。だからこそ、相手と自分とを分断するのではなく、頃合いを見て関係性を築き直すのを期待して、距離を置くことが大切になります。大切なのは、相手の人間性や相手との人間関係を一つに定義しないことです。好きな人がたまに見せる嫌なところに寛容になって、嫌いな人がたまに見せる良いところに敏感になることです。その心構えを捨てない限り、どんな人間に対しても、本当に分かたれるということはないと思うのです。 「そうありたい」と思うこと 今になって思うに、小学生の私が人間関係に失敗したのは、漠然とした「分かり合えなさ」にかこつけて歩み寄らないことを正当化しただけでなく、「人と関わることは逃げずに向き合うことだ」という思い込みを捨てられなかったことにあるのかも知れません。見下している相手のために傷ついたり、心を悩ませたりすることがひどく馬鹿らしく思われ、それでも逃げることはもっと恥ずかしかったために、自分を正しい側に、相手を間違った側に固定し、観客席から劇の批評をするような人間関係しか築けなかったのです。しかし、人間関係は元より悩ましいものであり、悩みから解放されたいのであれば、人間関係の方を捨てるしかありません。しかし、人が人と関わらず、誰の支えも得ずに生きていくのはとても難しいということは、これまでに説明したとおりです。 あの頃の私は未熟であり、きっと今もそうなのかも知れません。それでも、ただ周囲との隔絶に何の手も打てなかったあの頃に比べれば、単純な人間ではなくなったと思います。忍耐は自分を犠牲にして相手を許し続けることではなく、未来の可能性を閉じず、その曖昧さに根気よく付き合い続ける能動的な姿勢です。そういう地道な行動を積み重ねれば、「みんなと仲良く」という言葉もそう現実離れしたものには聞こえないように思えます。 そうは言ってもやはり、人には必ず好き嫌いや相性があり、たとえどちらも間違っていなかったとしても両立できない価値観が存在します。全員と同じくらい親密で、誰とも争わないという意味での「みんなと仲良く」はどうしても難しいことです。それでも私は、同じ人間として生まれてきた誰かを簡単に切り捨ててしまうことを、どうしても受け入れたくないと思います。 判断を急がず、善悪を単純化せず、自分の心をも守り、未来の関係性に期待を抱く。そうした態度を選び続けることは、他人や世界の形を変えることはできなくとも、自分に見える世界を平和に保ち続ける力にはなります。その理想はきっと未熟な点も多く、私は数えきれない挫折を経験するでしょうが、それでもなお「そうありたい」と願い続けること自体に、私は何かの意味を見出したいと思うのです。 終わり ◆土浦一高哲学部主催 哲学カフェ「第5回 語るカフェ」のお誘い私たち高校生は、社会人の皆様との対話を通じて、学校生活の中では得られない経験や発想に触れさせていただきたいと考えています。私たちと一緒に哲学を楽しんでみませんか? 年代や職業を問わず、多くの方々の参加をお待ちしています。▽日時 4月26日(日) ▽内容・第1部「ロジカフェ」 午前9時30分開場・受付/午前10時~午後0時10分 ロジカフェ/午後0時20分解散・第2部「エモカフェ」 午後1時開場・受付/午後1時20分~午後4時 エモカフェ/午後4時10分解散▽場所 がばんクリエイティブルーム2階 土浦市中央1丁目13-52▽参加申込方法 参加申込フォームよりお申し込みください▽申込締切 4月20日(月)▽問い合わせ先 電話 029-822-0137(平日午前10時~午後3時30分、土浦一高哲学部顧問 飯島)▽詳細は告知ページへ。