煙火の系譜は湖畔から山へ
【コラム・小泉裕司】火薬を取り扱う花火工場は、火薬類取締法など関連法が定める「保安距離」確保の観点から、住宅街や公衆が集まる施設を避けた山間部や平地のはずれに立地するのが一般的である。
土浦における「花火製造」の歴史は、1936(昭和11)年、霞ケ浦湖畔の川口町(現 川口2丁目)に「北島煙火店」が創業したことに始まる。戦後「土浦火工」(北島義一社長)へと社名を改め、土浦全国花火競技大会の発展を支える存在となった。
その後、市街化の進展に伴い、1963年に宍塚大池地区へと移転する。興味深いことに、移転先の宍塚山周辺では明治の中頃まで「竜星(りゅうせい)」と呼ばれるロケット花火が打ち上げられていたという。これは櫓(やぐら)に固定した筒に火薬を詰め、丸太を空高く打ち上げてその高さを競うものであった。
かつての「竜星」から土浦火工へと至る煙火の伝統は、時代を超えてつながっているように思えてならない。ちなみに現在も、つくば市百家(はっけ)の観音寺では、伝統花火を支える山﨑煙火製造所の支援を受け、9月第2日曜日に「竜水」という名のロケット花火が奉納されている。
1956年、土浦火工の子会社として、上高津町に設立された「昭和火工」は、元々、川崎市登戸で照明弾などを製造していた企業であった。義一氏が武藤輝彦氏(1921-2002)との共同経営に参画した当時は、玩具花火も幅広く取り扱い、土浦火工と昭和火工の両工場はわずか1.5キロほどの距離で、土浦の煙火産業の両輪を担っていた。
花火事故と安全への挑戦
「花火の歴史は事故の歴史」とも言われる。土浦におけるその歩みは、不断の安全への挑戦の記録でもあった。1991年の解散までの約半世紀の間に、同社関連の火災事故は18件発生し、7人が尊い命を落としている。
記録をひもとくと、事故の多くは移転前の川口町で発生したが、宍塚山や上高津、さらには湖上での水中花火事故も記録に刻まれている。当時の消防士たちは非番の日であっても現場に駆けつけたという。それは、火薬という危険物を扱う現場を有するまちの宿命だ。
特に1975年の爆発事故は悲劇的だ。日本煙火協会の設立に尽力し、業界全体の安全確保を生涯の使命としていた義一氏は、この事故で跡継ぎの長男克之氏を亡くしている。「安全なくして花火の発展なし」。この信念を掲げるリーダーにとって、身内を襲った悲劇がいかに断腸の思いであったかは、想像に難くない。この事故を最後に、土浦火工での火災事故は確認されていない。
現在、宍塚山の工場跡入り口には、折れ曲がった「土浦火工」の看板が往時をしのばせるのみである。一方で、昭和火工の跡地は、今も業界大手の玩具花火メーカーの倉庫として活用されている。形を変えながらも、そこは今なお子供たちに夢を発信する空間であり続けている。
「花火のまち」土浦。千紫万紅(せんしばんこう)のごとく秋の夜空を彩る閃光(せんこう)の裏側には、火薬と向き合い、時には命を賭して技術を磨き上げた先人たちの、苛烈な歴史が刻まれている。本日はこれにて打ち留めー!(花火鑑賞士、元土浦市副市長)
<参考文献>
「土浦消防三十年のあゆみ」(土浦市消防本部、1980年刊)
「土浦町内ものがたり」(本道清、常陽新聞社、1989年刊)
「日本煙火協会参拾年史」(日本煙火協会、1993年刊)
「日本の花火のあゆみ」(武藤輝彦、あずさ書店、2000年刊)
「花火と土浦」(土浦市、2018年)
「花火師たちの記憶/DVD」((有)茨城ビデオパック、2025年完成)






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