【コラム・山口絹記】この数年で読み聞かせを卒業した娘の読書スピードがみるみる上がり、休日には厚めの児童書を1冊以上読むまでになった。学校でもよく本を読んでいるらしく、担任の先生との面談でもその旨を「偉いですね」というニュアンスで伝えられ、「はぁ」とか「まぁ」と曖昧にうなずいているのだが、活字中毒患者の真意を伝えるのはなかなか難しいものである。
私自身は学生時代、母親に「本の犬食いはやめなさいよ」「本ばっかり読んでないで」とよく言われたのだが、真偽不明な情報スジによると、小さい頃に抑圧された欲は大人になって暴走することがあるらしい。
なので私は、『100万回生きたねこ』の白猫ように、娘の完読宣言を受けても、そっけなく「そう」とだけ答えている。実際のところ、私の母親もいわゆる本の虫で、口ではいろいろ言っても本当に読書を禁じていたわけではなかったし、ことあるごとに娘にも書籍をプレゼントしてくれるので、まぁつまり、そういうことである。おそらくどうしようもない。
そんなこんなで最近、娘と本屋に行くことが増えた。私が誘うこともあるし、娘が「本がきれたから買いに行きたい」というのでついて行くこともある。個人的には我が子の言動について不安を感じるところである。本が“きれた”という表現が完全に中毒患者のソレだ。おそらくもう手を付けられないところまで中毒症状が進行してしまったようである。
枕元に本が5、6冊
一方で、“きれた”という状況認識ができているうちは健全である、という見方もある。私くらい重篤な患者になると、自分の読書スピードをはるかに上回るスピードで書物が部屋に堆積していくため、目も当てられない。妻もすっかり諦めているようだ。
夜に寝室に入ると、寝ている娘の枕元には本が5、6冊積まれていて、(私も全く同じことをするのだが)客観的に見ると本は同時に1冊しか読めないのに、なぜ積む必要があるのだろうと疑問に思う。自問自答しても理由がよくわからないので、これもおそらく専門家のカウンセリングが必要な案件なのだろう。
あと数年すれば、娘と共有できる書籍もぐっと増えると思われるので、私の部屋と実家の数万冊の書籍が役に立ってくれることを祈るばかりである。(言語研究者)






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